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2-6
あ、薔薇の香り⋯⋯。
何故、こんな時に。
瑠輝はこの後に押し寄せて来るであろう、胸の痛みを独り予想し構えていた。
だが、いつまで経ってもその痛みは訪れる気配がない。
一体、どうしてだ。
自身の手に被せられた男の手を怪訝そうにじっと見つめると、背後から静かにこう告げられた。
「――この扉の先を知って、一体オメガのお前はどうするつもりなんだ」
正直、瑠輝はこの言葉の意味がよく分からなかった。
酷く困惑した瑠輝は、伸ばしていた手を無意識に引っ込めようとして、却ってその手を大きな手でぎゅっと握られてしまう。
まるで、獲物を見つけたと言わんばかりに。
「せっかく逃がしてやったのに、今のこの事実を知ったら身代わりで来たベータのお友達は、一体どう――思うかな?」
氷のような冷たい口調に、瑠輝の背筋は凍る思いがした。
せっかく逃がしてやった、って何?
身代わりって、何?
ベータのお友達って――もしかして莉宇、のこと⋯⋯?
色々と訊きたいことはあったが、全身の震えが止まらない瑠輝は何一つ、その疑問を口にすることができない。
「震えちゃって可愛いな。先日は、俺を抱いてやる、なんて息巻いていたのが嘘のようだ」
耳朶を舐めるようにして囁くその声に、極度の緊張を感じていたはずの瑠輝だったが、何故か腹の奥がぞくりと粟立つのを感じてしまう。
――えっ、この感覚は何?
経験したことのない感覚に、瑠輝は酷く困惑する。
「それとも、威勢の良い“瑠輝”クンはやはりその辺の、簡単に身体を開く低俗なオメガと一緒だったのか? だったら、わざわざベータのお友達が身代わりになる必要なんてなかったのにな」
男の言葉に、ようやく瑠輝は全ての言葉の意味を察知した。
つまり、莉宇は二週間前にここへ侵入したことで、その罪の代償をオメガの瑠輝に代わって超エリートアルファの慰み者になっているというのだ。
「⋯⋯どうして」
自然と震える声、絶望で真っ暗になっていく目の前、そして急激に体温が失われていく指先。
「⋯⋯どうして、どうして⋯⋯どうして?」
瑠輝の目の焦点は定まらず、誰に聞かせる訳でもないその言葉が、ただ呪文のように何度も何度も繰り返される。
この二週間、瑠輝は莉宇から放課後に避けられていた理由をようやくこの男の口から知ることができた。
事実を知りたいと思っていた。
事実を知ってから、悩もうと思っていた。
幸か不幸か、その先に待っていたのは別の意味での絶望で。
こんなことってない。
もし、あの時瑠輝が倒れなかったら?
もし、あの時莉宇の誘いに乗らず、そのまま蔓薔薇の要塞を潜らなかったら?
否、もう全てが遅い。
何度も自問自答を繰り返したが、既に起こってしまったことには、何一つ取り返しがつくはずもなく。
怒りで強く震える自身の手に被せられていた男の手を、瑠輝は精一杯全身で振り払う。
「サイテーだ」
ぼそりと一言瑠輝は呟くと、躊躇なく男の方へ振り向いた。
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