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「トラウマって、僕⋯⋯自分がどうしてここに入ったかなんて、知らないんですけど」
困惑する瑠輝に、水城はにじり寄る。すかさずそれに、瑠輝も同じ歩幅だけ後ずさる。
瑠輝の本能が、激しい警告音を鳴らす。これ以上、水城には近づくなと。
「――ここに保護されるオメガは、大抵、親からの愛を知らない者がほとんどだ。瑠輝もきっと同じ。親に恵まれず、トラウマを負ってしまった可愛い瑠輝を私の愛で充たし、克服してあげよう」
水城はそう言うと勢い良く両手を広げ、少し前に立つ瑠輝へ抱きつこうとする。
素早くそれを瑠輝は身軽に交わす。
「瑠輝、逃げるのか? あれだけ小さい頃、水城先生のことが大好きだ、と言ってたじゃないか」
ウソ、だろ。
瑠輝は思った。
「私はずっと、小さい頃から自分を慕ってくれた瑠輝のことが可愛いと思っていたんだよ」
水城はがしっと瑠輝の右肩を力強く掴む。
「痛っ。離してくださいっ」
瑠輝は左手で、その手を払おうとするが、まるでビクともしない。
この頃の水城は、以前と比べてすっかりその様子は変わってしまっていたが、それでも生活指導を任されるほどの立派な教官となっていたはずだ。
少なくとも、先ほどみたいに瑠輝が外でアルファと接触していないか、厳しく目を光らせていたように。
だが今、目の前にいる水城は明らかに違っている。
ぎらりと光る眼鏡の奥が、血走っているように見えた。
本気だ。
本気で水城は、瑠輝のトラウマを愛でることで克服させようとしている。
そのトラウマが確かかどうか分かりもしない上、未だに瑠輝が水城のことを慕っているのではないか、と誤解したままで。
――こわい、怖い、恐い。
咄嗟に瑠輝は周囲へ助けを求めようとし、辺りを見渡すが、門限直後のフロアには誰も外へ出て来ようとする様子はない。
しんと静まり返るフロアに、不気味ささえ感じる。
自身の部屋は目と鼻の先だが、万が一部屋に逃げ込めたとしても、そのまま押し入られてしまったら最後だと判断する。
だからといって、ここへ滞留することは間違いなく危険だ。ベータと言っても、アルファほどの体格を持つ水城から、人が誰か出て来るまで長時間逃げ切れる自信はない。
すると、瑠輝は自身が最近あるものを携帯するようになったことを不意に思い出す。
慌てて手に持っていた学生鞄から、手探りでそれを見つけ出す。
「あった」
目的のものを探し出し、瑠輝は思わず声を上げてしまう。
水城は怪訝そうな顔をしたが、今はそれを気にしている暇はない。
一刻も早く、この男から逃げ出すのが先決だ。
そのために、まさかこれをこんなところで使うことになるとは、瑠輝も夢にも思っていなかった。
しかも、ベータの水城先生相手に。
「何だ、それは?」
自身へ向かって構えられたスプレー缶に、水城が戸惑いの声を上げる。
「水城先生、ごめんなさい」
瑠輝は目を瞑ってそう謝罪すると、容赦なくそのスプレー缶の頂上にあるボタンを強く一押しした。
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