63 / 139

5-12

――龍臣」 決して怒気を孕んでいた訳ではない。ただ、煌輝が龍臣の名前を呼んだだけであった。 たったそれだけのことで、瞬時に強い緊張感がこの場へと立つ。 「賢い選択をしていると思えないのは、一体どっちだ」 氷の微笑を浮かべ、煌輝は龍臣の左手を掴む瑠輝の手をそっと優しく引き離した。 「瑠輝は俺の大切なお客様だと、そう言ったはずだが」 有無を言わさぬ声で、煌輝は淡々とそう告げる。龍臣は不服そうな顔でこちらを軽く睨んだ。しかし、煌輝はそれを気に止めることなく、重い空気に息を潜めていた瑠輝を自身の胸の中へ抱き寄せた。 「こ、煌輝⋯⋯?」 突き刺さるほどの龍臣からの視線を感じていた瑠輝は、大きな腕の中から逃れようと身じろぐが、煌輝がそれを許さない。 相変わらず、煌輝からは薔薇の甘い香りがして、だがそれが非常に心地好くて、瑠輝は戸惑いを感じてしまう。 龍臣の言っていることは、間違ってない。 本来、シェルター暮らしのオメガは、こんなところに居てはいけないと、頭では分かっている。 ましてや、この男がただの超エリートアルファではなく、“キングローズ”と呼ばれる最上級のアルファであるという事実も。 「誰にも見せたくないな、その可愛い顔」 瑠輝にだけ聞こえるように煌輝は呟く。 「えっ⋯⋯可愛い、だって?」 煌輝からの指摘に、いつの間にか自身の顔面がだらしなく緩んでいたことを知る。 「とにかく俺の部屋へ行こう」 煌輝はそう告げると、腕の中に居た瑠輝を強引に伴い、何処かへ歩き始める。 背後から龍臣の強烈な圧を感じ、瑠輝はその場で躊躇してしまう。 「あの、さ――僕、やっぱり帰⋯⋯」 瑠輝がそう言いかけたところで、煌輝はそれを遮った。 「ここへ来る前に、逃げないとそう瑠輝の意志を確認したはずだが?」 確かにハイヤーへ乗る直前、瑠輝はその意志を確かに確認されていた。 だが、あれだけの御託を並べられてしまったら、幾ら煌輝が良いと言っても居心地は悪い。 「確かに――した、けど⋯⋯でも」 戸惑いを口にする瑠輝の口を、軽く手で塞ぐ。 「俺たち、同じ気持ちだと思っていたからここへ連れて来たつもりだけど。瑠輝は⋯⋯違っていたのか?」 甘やかに囁くその言葉に、瑠輝は不覚にも酷く赤面し、胸の奥が激しく揺れるのを感じていた。 おずおずと頭上の煌輝を見上げ、視線が合致する。 優しく微笑み返す煌輝に、瑠輝は咄嗟に視線を外す。益々、その心は落ち着かなくなり戸惑いは強くなる一方だった。 ――今だったらまだ、引き返せる。 でも、でも⋯⋯こんなにも優しく煌輝から微笑み掛けられたら、もう――。 もう一度だけ、ちらりと煌輝を見つめる。 変わらず優しく微笑む煌輝に、瑠輝は密かに意を決した。

ともだちにシェアしよう!