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6-8
「莉宇、大丈夫だって。降ろせよ」
三階の教室から一階へと降り、だいぶその脚が失速してきた莉宇に、瑠輝はその身を案じた声を掛ける。
「嫌だ。意地でも降ろしたくない。瑠輝はだいたい、もっと自分を大事にするべきだろ」
既に重量オーバーで震えていた自らの手を奮い立たせるように、莉宇は力強くそう告げると、再度瑠輝をしっかりと抱え直し、目の前のドアを右脚で蹴飛ばすようように開けた。
「先生、悪い。お邪魔するぜ」
莉宇はそう言うと、そのまま保健室の入口を跨ぎ、三台並んだベッドの、一番手前に置いてあったそれへと瑠輝を下ろした。
「瑠輝君、体調が悪いのかい?」
物腰が柔らかい男性ベータの保健医が、心配そうな表情をして瑠輝の元へと近寄った。一見、線が細そうだがベータ故、やはり瑠輝よりは体格がしっかりとしている。
「いえ、その⋯⋯」
どちらかというと、瑠輝の調子が良くないのは身体ではなく心の方だ。
既に原因は分かっている。
「そういえば瑠輝君の担任の先生が、今日体調不良で遅刻してくると言っていたね」
瑠輝の額にそっと手を充てると、保健医は「熱はなさそうだ」と安堵の表情を浮かべ言った。傍にいた莉宇もほっとした表情を見せる。
「瑠輝君は、確かオメガだったよね。もしかして、体調不良はまだ発情期が安定していないせいかな? この状態で独り外をふらつくと、もし発情期がぶり返してしまった時に危険だよ。だから、発情期が終わっても数日は抑制剤を飲んでおいた方がいいかもね」
確かに瑠輝はつい一週間ほど前に、初めての発情期を迎えたばかりだ。まだ発情期の安定も何も分かる訳はない。そう思ったが、反論することなく素直に「はい」と返事した。
「薬、持ってる?」
保健医はそう瑠輝に訊ねる。
「あ、はい。持ってます⋯⋯けど、鞄⋯⋯教室だ」
瑠輝がそう言うと、鍵のかかった中が透けて見える縦に長方形のキャビネットから、薬包を一つ取り出す。
「今日だけ、特別だよ」
そう言って、保健医は発情抑制剤を瑠輝に渡した。何でも、オメガの生徒が通う学校には、予期せぬ発情を起こしてしまったせいとのために、発情抑制剤を常備しておかなければならないという法律があるそうだ。
本来であれば、発情もしていない瑠輝には渡せないはずなのだが、保健医はその「恐れ」があるからと言い、水の入ったコップと共に目の前へそれを差し出した。
出されたからには瑠輝も飲まざるを得なくなり、勧められるがままにその薬を内服する。
「じゃ、先生はこれから昼休憩に行ってくるから、何かあったらその机の上にある内線で職員室にかけてね。木崎君、ご苦労さま」
内服を見届けた保健医は、そのまま保健室を後にした。
「瑠輝、とりあえず良かったな」
二人きりになった保健室で莉宇は言った。
――何一つ、良いことなんてない。
莉宇の立っている方とは反対の、右側へ寝返りを打つと、こっそり心の中で瑠輝はそう呟いた。
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