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「瑠輝くん、もう大丈夫だよ」
何度もその背中を優しく擦る千織のお陰か、いつの間にか不快感はなくなっていた。
「ああああ⋯⋯」
ありがとうございます、と伝えたかったが言葉に出来ず、それ以上発することを止めてしまう。
一筋の涙が頬へ静かに溢れる。
「瑠輝くん、しばらく面会謝絶にしようか?」
背を向けたまま、瑠輝はコクリと小さく頷く。
「分かった。さっきみたいに何かあったら、直ぐにナースコールを押してね。遠慮なんていらないから」
白衣の天使はそう言うと、その日瑠輝が寝静まるまで、ずっと傍で手を握っていてくれたのだった。
病院スタッフ以外、誰にも逢わず六月を迎えた瑠輝は順調に回復の兆しを見せ、ようやく敷地内であれば外へ出ても良いとの許可が降りていた。
「瑠輝くんおはよう。今日は良い天気だね」
朝ご飯を終え、ぼんやり窓から外を眺めていた瑠輝の背後に千織の声が掛けられる。
体調が快方へと向かっていた瑠輝は、この頃ベッドから起き上がり、一日を過ごすことが増えてきていた。
今日も朝から調子が良好で、リハビリを兼ね立って外を眺めていたのだ。
「午前中、一緒に散歩に行かない? あ、車椅子は僕が押すから大丈夫だよ」
寝たきりだった瑠輝の脚はすっかり筋力が落ち、歩行練習のリハビリは開始しているが、長距離移動ではまだ車椅子を使用している。
ゆっくり瑠輝は千織の方へ振り向くと、微笑みながら大きく頷いた。
「じゃ、この車椅子に移ろうか」
ベッドの横に畳んで置かれていた車椅子を開くと、千織は瑠輝の立っていた隣へそれを横付けした。
そう。実はまだ、瑠輝の言葉としての声は出ないままである。
最初こそ肺炎の後遺症と診断されたが、改めて隅々まで検査したところ、どうやらこの声はストレスや心的外傷から来るもので、失声症と呼ばれるものだと判明した。
思い当たる節は一つしかなかった。
もちろん、あの夜の海での出来事しかない。
失声症と診断がついたところで、臨床心理士によるカウンセリングが始まったが、決まって直ぐ瑠輝はフラッシュバックから大きく取り乱し、それ以上は不可能となってしまうのだ。
結果、嗄れた「あ」どころか今ではその声自体、全てを失ってしまっている。
それでも良いと思った。
瑠輝の存在自体が迷惑を掛けるのであれば、この口など、この声などいらないのだと。そう瑠輝は強く思った。
だが時々、こうして窓の外をぼんやり眺めていると考えてしまうのだ。
煌輝は、無事なのだろうかと。
元気になって、腕の傷も治って、“キングローズ”としての公務を無事に全うしているのだろうか、と。
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