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息が止まるかと思った。 否、息が止まって、今度こそ自分は夢を見ているのだと、そう思った。 薔薇の甘やかな香りがふわりと鼻腔をかすめ、夢ではないのだと、今のこの状況を受け入れ始めていく。 ああ、これは現実? 本当に、現実なのだろうか。 身体から香る薔薇の香り。瑠輝と同じ茶色の淡い髪色に、王子様然とした相貌。そして誰よりも甘く優しく、瑠輝の名前を呼ぶその低い声。 間違いない。毎日、その無事を強く願ったあの携帯電話の持ち主で、瑠輝の想い人だ。 「⋯⋯⋯⋯こ、ぉき?」 酷く掠れた声とも言えないものが、喉の奥の奥の方からポツリと出る。 車椅子の手押しハンドルを握っていた心織が、背後で激しく動揺する気配がした。 「瑠輝――やっと逢えた」 上等そうな黒のスラックスが汚れてしまうのも気にせず、王子様然としたその男は地面に膝をつき、飛びつくように改めて瑠輝へ抱きつく。 煌輝だ。 瑠輝を強く抱き締めるこの男は、間違いなく“星宮煌輝”なのだ。 あの晩以来、久しぶりに煌輝を直に感じた。 身体が触れたところから、煌輝の温もりを感じる。次第に早くなっていく鼓動を感じ、煌輝が緊張しているのだと分かった。 抱き締められた大きな腕のその下から、瑠輝もそっとその背中へと手を伸ばす。 ああ、煌輝が生きている。 生きていて、今、僕の腕の中に居る。 たったそれだけのことだというのに、こんなにもその事実が嬉しいだなんて。 瑠輝はその存在を、その温もりを確かめるようにして、伸ばしていた手をぎゅっと背中にしがみつくようにして握った。 うれしい、嬉しい、うれしい。 何一つ他の言葉が思いつかなかった瑠輝は、人目を憚らず大粒の涙を溢す。 煌輝はそれに気がつき、自身の胸の中であやすようにして瑠輝を宥める。 最初は背中を優しく、強く抱き締めるのみ。それでも泣き止まぬ瑠輝に、今度は背中を優しく撫でる。更にそこから頬を流れる涙を手で拭い、最終的にはとめどないその涙をぺろっと舌でキスするように舐めていた。 煌輝、こうき、こーき! 思わず瑠輝は瞠目し、その名前を呼ぶ。驚嘆した瑠輝の涙は、その行為でもうすっかり引っ込んでしまったみたいだ。 気がつけばその舌遣いも、軽い触れるのみのものから艶めかしいものへと変わっていた。 心織が見ている前だというのに。 羞恥心から、「嫌々」と顔を背けるようにして煌輝を遠ざける。 だが煌輝はそれを許さず、逃げようとするその顔を両手で包む。 「逃げないでくれ。今度、瑠輝がいなくなったら俺はもう――」 切なく揺れるマロン色の瞳が、真剣にそう告げる。 嬉しかった。 嬉しかったが、同時に煌輝の言葉は胸に痛くもあった。 瑠輝だって、逃げたつもりはない。 逃げたつもりではないのだが。 龍臣の言葉が頭を過ぎり、瑠輝は目を伏せることしかできなかった。

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