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024.知らない味

 人生で一番古い記憶は何かといえば、「死にたくない」という強い思い。  俺の親は暗殺者。だから俺も暗殺者として育てられた。まずはどんな気候でも人に気取られず独りで生きていけるよう、三歳で南国の無人島、四歳でアルプス山頂とサハラ砂漠へ放り込まれた。  生還したのは俺だけ、かと思いきや、意外にも何人かいたらしい。俺以外のそいつらは、結局大人になれずに皆殺されたけど。  唯一生き残った俺は、組織の命令があればどこへでも行くしなんでもする。前線へ、銃後へ、花街へ、日常へ。泥も優雅に啜ろう、皿まで毒を喰らおう。そういう風に造られた。  必要ならば男も抱く、女に抱かれることさえあった。裸の付き合いかと思わせて、身体に隠した暗器や毒で標的を仕留めるのだ。歯に繋がれたピアノ線が食道を伝う感触に笑って耐えて、胃には毒を仕舞いこむ。秘部に異物を抱えたまま自然な動作で目標を欺き、幾度と死の交接を重ねた。  金でできる楽しみもほぼ全てを教え込まれている。人を侍らせ、新築の豪邸に住み、時に善人のフリをして浮浪児に家を与え、時に貧しい教会へ寄付をしたり。  蔑みの目も哀れみの目も、畏怖の目も尊敬の目も、すべて知っている。  だのに、なぜだろう。 「――あの子とづぎあいだぃいいィィィッ!!!!」  生ける伝説たるこの俺が、なんてザマだ。色恋にうつつを抜かして自棄酒だなんて。 「ふふふ。まさかアナタが、カタギの学生に首ったけとはねえ。」 「もう死にたい……寝ても覚めてもあの子のことしか考えられなくて……ッ!!」  カウンターに数度額を打ち付けてから頼んだバーボンを口に運ぶと、なんだか塩っぽい味がする。もしやこれが俺の涙の味なのかな。カナシイ。何回飲んでも飲み慣れない。  信じ難いことだ。酸いも甘いも噛み分けてきた暗殺者が、恋一つでこんなに盲目になってしまうなんて!!  バーのマスターに擬装する同業仲間のオネエだけは、情けない俺にも笑わず馬鹿にせず付き合ってくれる。 「困ったわねぇ。いっそ告白して綺麗に玉砕しちゃいなさいよぉ。」 「簡単に言うなよなぁ!? できるもんならとっくにしてるッ!!」  馬鹿みたいな会話を、堂々巡り。何度同じようなやり取りを交わしたことか! それに救われてもいる自分の情けなさといったら! だってそうだろう? どんなに身を焦がしたところで、裏稼業生まれの俺が表の世界のあの子と対等に付き合えるわけがない!!  遣る瀬無くて夜毎酒を呷るしかできない俺に、マスターは言った。「アナタは若くてこの世界しか知らないから、そういう感情の処理の仕方がまだわからないのよ。」つまりやり方さえ覚えれば暗殺と同じく簡単に処理できるようになるらしい。嘘みてぇ。  なんなら抱こうか抱かせてあげようかとうるさい時もあるけれど、俺はマスター以外にはこの話をできた試しがない。 彼(彼女?)は口が固くていい仲間だった。  ――とはいえ、これだって仕事ありきの仲。 「それじゃ、ウチの貴重なヒットマンが死んでしまう前にお仕事の話でもしてあげましょうかしら。」  涼やかな笑みと共にカウンターに差し出されたのは一枚の写真。肉食動物そっくりにギラギラ整えられた爪が、人影をトンと示す。 「同業組織のボスの隠し子よ。最近こっちの中堅メンバーが売られて、上層部はてんやわんやだわ。」 「へえ。」 「報復よ、バラしちゃって。」  再び口に運んだバーボンが、今度はやけに苦く舌を冒した。  辛酸なら舐め慣れた。甘露の味も覚えている。  だが、……こんな苦いのは初めてだ。 「わかった。」  俺は今、いつもの顔がきちんと作れているのだろうか。  なんで、なんで。  可愛いあの子を俺が殺さなきゃなんねぇんだ。

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