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第3話(3)
「――――――っ!?」
声を出そうとするが、あまりに強い力で口許を押さえこまれてくぐもった呻き声しか出すことができない。抵抗しようと暴れるのをものともせず、相手は莉音を抱えこんだまま、台所を突っ切ると玄関に向かっていった。ものすごい力だった。
なにが起こっているのか、まったく理解できなかった。
逃れようと必死に手足をばたつかせるが、まともに息ができないせいですぐに抵抗できなくなる。苦しくて、こめかみや首筋の血管が破裂するのではないかと思うほどドクドクと激しく脈打っていた。
意識が朦朧としてくる中、自分を連れ去ろうとする相手と不意に目が合った。フードを目深にかぶってマスクをしており、どんな顔をしているのかわからない。だが、それでも知らない人間だと瞬時に思った。相手があまりに大柄だったからだ。
莉音の知り合いの中に、こんな体格の人間はいなかった。背の高さはヴィンセントとおなじくらいなのかもしれないが、骨格の太さがまるで違う。その見ず知らずの相手が、なぜこんな行動に出ているのか想像もつかなかった。
ただ、自分の身に危険が迫っていることだけはたしかだった。
どうにかして逃げ出したいのに、もう目がかすんで、手足に力を入れることもできない。
なぜ、こんなことが起こっているのだろう。
ひとりでは帰すことができないと言ったヴィンセントの心配を、少し神経質すぎるようにも思っていたが、そうではなかったのだと思い知る。同時に、胸がキリリと痛んだ。
――アルフさん、助けて……。
思った次の瞬間、それはダメだと即座に否定した。
そうではない。彼まで危険に巻きこむことはできなかった。だから自分のことはかまわず逃げてほしい。電話をするために外に出たが、ひょっとすると近隣の目を気にして車の中にでも戻ったのかもしれない。ならばこのまま、気づかずにいてほしかった。
「その子を放せっ!」
突如響きわたった怒声に、男がビクリと反応した。
莉音をあらためて抱えなおし、そのまま逃げ去ろうとする。咄嗟に焦りが生じたのか、莉音の口許を覆っていた掌の圧がわずかにゆるんだ。莉音はその掌を、手袋の布越しに反射的に強く噛んでいた。
「……っ」
男の口からかすかな呻きが漏れる。
階段を駆け上がってきた足音がすぐ背後に迫り、男は結局、莉音の躰をその場に放り捨てた。
硬いコンクリに投げ出されて、背中や尻に衝撃が奔 る。
「待て貴様っ!」
追ってきた足音は、走り去る男を追おうとしてすぐに足を止め、莉音の許へと駆け寄ってきた。
「莉音! 莉音っ、大丈夫かっ!?」
蹲 って咳きこんでいた背中にあたたかな手が触れ、ゆっくりと抱き起こされた。
「ア、ルフさ、ん……」
「すまなかった、莉音。私が君を残して外へ出たばかりに」
ヴィンセントは端整な顔を歪めると、莉音の躰を抱きしめた。ヴィンセントの愛用しているコロンの香りがふわりと鼻腔に届く。莉音の胸に、ようやく安堵がひろがった。
「どこか怪我は? 痛むところはないか?」
痛みは身体中のあちこちにあったが、どこも大怪我などはしていない。
「だい、じょぶ、です」
掠れる声で答えて、ふたたび咳きこんだ。
ようやく思考力が戻ってきたところで、自分がいま、玄関を出てすぐの外廊下にいるのだと理解した。ほんの一瞬のあいだに、ほとんどなんの抵抗もできないまま、こんなところまで引きずり出されていたのだ。
状況を把握すると同時に、いまごろになって恐怖心が擡 げ、躰がふるえはじめた。
「すまない、怖い思いをさせた。もう大丈夫だから。莉音、もう大丈夫だ」
声もなくガタガタとふるえる莉音を、ヴィンセントは抱きしめた。莉音はその胸に縋りつく。なだめるように背中をさすられ、髪を撫でられて、安堵の思いが溢れるとともに目尻に涙が滲んだ。
狙われていたのは自分だった。いま、はじめてそのことを実感した。
こみあげる恐怖を振り払うことができない。
なぜ……。
部屋を荒らしたのも、おそらくはおなじ理由なのだろうと思う。それどころか、ヴィンセントが最初に襲われたのも、同一の目的だったのではないかという気がしてならなかった。
現場は自宅アパートの目と鼻の先の路上で、最終的には莉音自身も襲われた。ずっと、自分は目撃者として巻きこまれたのだと思っていた。だが、そうではなかったのかもしれない。狙われていたのは、最初から自分だったのだ。
たったいま自分を攫おうとした男と、あの晩、自分の真後ろで凶器を振りかぶっていた男の姿とが重なる。
確信は持てない。だが、それでも同一人物だったのではないかという確信めいた思いがどこかにあった。
ヴィンセントと揉めていた黒服の男たちも仲間であるなら、相手は少なくとも四人以上いることになる。しかし莉音には、そんな連中に狙われる原因がなにひとつ思いあたらなかった。
怖い。怖い。もしこの場にヴィンセントがいなかったら、自分は間違いなくあのまま連れ去られていた。
その先のことは、とても想像できない。
いつまでもふるえが止まらない莉音を、ヴィンセントはずっと抱きしめていてくれた。
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