23 / 65

第5章 第1話(1)

 その後、ヴィンセントの通報で駆けつけた警察官から事情聴取を受けた莉音は、ヴィンセントに護られるようにして港区のマンションに戻った。  空き巣のときのように、かなり時間をとられるかと思ったが、ヴィンセントがうまくあいだに入っていろいろ対応してくれたため、比較的早い段階で解放してもらうことができた。  今日はデリバリーにするので夕食は作らなくていいというヴィンセントの心遣いに甘え、帰宅後は早々に自室に引き上げた。  持ち帰った荷物を整理する気にはとてもなれず、なにより、一刻も早く躰を洗い流してしまいたくて真っ先にシャワーを浴びた。アパートの部屋の片付けで埃まみれになったからというより、見ず知らずの男に抱えこまれた生々しい感触が躰のあちこちに残っていて、気持ちが悪かったのだ。  服を脱いで裸になると、腕や足の至るところに痣や擦り傷ができていて、部屋から連れ出される際に、思いのほかぶつけていたことがわかった。連れ去られるまいと、必死で抵抗したせいだろう。  熱い湯を頭から浴びて髪を洗い、ボディーソープでいつもより念入りに躰中を洗う。そうして全身がさっぱりすると、少しだけ気分も落ち着いた。  これから、どうすればいいのだろうと考えるだけで途方に暮れる。いくら考えてみても、だれかに狙われる原因は思いあたるふしがないし、職探しをするうえでも、いつまでのこのままでいるわけにはいかなかった。それでも、警察が懸命に動いてくれて、ヴィンセントもまた莉音の安全を第一に考えていろいろ配慮してくれているのだから、いまはとにかく、少しでも早く事件が解決することを願って、静かに過ごしているしかないのかもしれない。  頭ではわかっていても、不安な気持ちが胸の(うち)を満たして崩れてしまいそうになる。この件が、母の事故の原因にまでたどり着いてしまったらと考えるだけでどうにかなりそうだった。  そんなはずはないと否定するそのそばから、そういう可能性もありうるのだと考えてしまう自分がいた。  今日、自分が見知らぬだれかの標的にされていると思い知ってはじめて、その可能性に思い至った。  どんなときでも笑顔で前向きに。  それが信条のはずだけれど、いまはとても空元気を出すことすらできない。母を喪った突然のあの衝撃から、ようやく少しずつ這い上がれる余力が出てきたところだというのに――  不意に部屋のドアがノックされて、莉音はビクンと身を竦ませた。 「莉音、私だ」  外から声がかかると同時に、ヴィンセントが顔を覗かせる。風呂上がりのパジャマ姿でベッドの端に座る莉音を見て、ゆっくりと近づいてきた。 「ピザが届いた。食べられそうか?」  尋ねながらも、莉音の隣に腰掛ける。それから、莉音の不安を感じとったかのように背中に腕をまわし、自分のほうへと引き寄せた。 「今日は本当にすまなかった。私の軽率な行動のせいで、君にとても怖い思いをさせてしまった」  触れる手と、すぐそばで響く静かな声が心地いい。 「そんな。アルフさんはなにも悪くないです。僕こそ事態を甘く見てました。まだ帰るのは危ないって、あんなにアルフさんが心配してくれてたのに」  引き寄せられるまま、ヴィンセントの躰に身をもたせかけて莉音は言った。  昼間抱きしめられたときも思ったが、ヴィンセントがいてくれるとそれだけで安心できる。ヴィンセントもまたすでにシャワーを浴びたのか、部屋着姿のその躰から、かすかにボディーソープが香った。昼間のコロンとは、また異なる好ましい香り。 「アルフさん、ごめんなさい。アルフさんが襲われたのって、僕のせいだったのかも……」  ポツリとした呟きに、ヴィンセントが怪訝(けげん)そうに莉音を見たのがわかった。 「どうした、突然?」 「狙われてたのって僕だったんですね。今日、はじめてそれがわかりました。僕、鈍いから全然気づいてなくて。でもきっと、知らないうちにだれかから、ものすごい恨みとか買っちゃってたのかも。今日のあれは、その報復とか仕返しとか、そういうことだったんじゃないかなって。あそこまでするくらいなんだから」 「莉音、そんなことはない」  莉音は躰を起こすとヴィンセントを見上げた。 「今日のあの男は、確実に僕を狙ってました。わざわざ家に上がりこんできて連れ去ろうとしたからには、ただの行き当たりばったりの思いつきの行動じゃなかったんだと思います。僕は小さな子供ではないし、誘拐しようと思ったらそれなりのリスクも伴うはずです。それなのに、犯人は迷わず僕を連れて行こうとした。おそらくはじめから、そうすることが目的だったんだと思うんです」  危害を加えることが目的ならば、あの場で襲いかかればそれで済む話だった。だが、犯人はそうしなかった。  話していくうちに、一度おさまりかけた恐怖心がまた頭を(もた)げてきた。  あの騒ぎのどさくさで、一瞬だけ交わった視線。自分に向けられた感情のない眼差しが、捕らえた獲物を血の通う人間とは見做していないことを物語っていた。  あのまま連れ去られていたら、いまごろどうなっていたのだろう。  思うと同時に、血の気が引いていく。 「莉音」  莉音の変化に気づいたヴィンセントが、躰の向きを変えて正面から莉音を抱きしめなおした。

ともだちにシェアしよう!