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第6章 第1話(1)
「それじゃあ、いってくる」
莉音の差し出す鞄を受け取って、かわりに使い終わった靴べらを莉音の手に戻したヴィンセントは、そのまま莉音の腰に腕をまわして自分のほうへと引き寄せた。
ごく自然な様子で首を傾け、唇にチュッとキスをする。思いがけないその行動に莉音は一瞬固まり、直後、傍らにいる早瀬と目が合って、これ以上ないほど狼狽 えた。
「アッ、アアアッ、アルフさんっっっ!!」
顔から首筋にかけて沸騰したように熱くなり、見るまでもなく真っ赤になったのが自分でもわかった。
ヴィンセントの側近だけあって愛想がよく、つねに柔和 で親しみやすい雰囲気を持ち合わせている早瀬だが、そのじつ、容易に他者に腹の底を見せることのない、かなりの切れ者である。その早瀬が、素の表情で驚きを示していた。
どうしたらいいのかわからず、莉音は首を縮めて居竦まった。
「……え? まさかとは思いますけど、社長、莉音くんに手、出したりなんてしてないですよね?」
「出した」
早瀬の問いかけに、ヴィンセントは平然と返した。莉音はますます肩身が狭くなり、首を竦めたままギュッと目を閉じた。怖くて、早瀬の反応が見られない。だが次の瞬間。
「えええっ!? ちょっ、社長! あなた、最低ですよ最低ですよ最低ですよっ。いたいけな青年になんてことを!」
思いのほか大きな声が玄関に響いて、莉音はビクッとした。
「事情があって家に帰れない子を庇護する名目でそばに置いておきながら、雇い主の権限にものを言わせて喰っちゃうとか、あり得ないでしょう! いくら莉音くんが自分好みのお気に入りだったからって、こんな純真無垢な子を手込めにしたとか信じられませんっ。莉音くん、まだ未成年なんですよ? わかってます? 節操がないにもほどがあるでしょう。ほんと最低ですからね? 雇い主失格です。っていうかこれ、完全に犯罪ですから!」
「早瀬、言葉が過ぎる」
悪しざまに罵る早瀬に、ヴィンセントは煩そうに眉を顰めた。動転したのは、むしろ莉音のほうである。自分のせいでヴィンセントが悪者にされてしまっては立つ瀬がない。あわててふたりのあいだに割って入った。
「は、早瀬さん、違います! 違いますからっ」
「え、でも」
「ほんとに違うんです。僕、てっ…、手込めにされてませんっ」
言っただけで、カァッと頬が熱くなった。
「あの、その、ご、合意っていうか……、むしろ、ぼ、くのほうがアルフさんにねだってっていうか、縋ってしまって……」
それ以上言うことができなくて、真っ赤になりながら俯いた。
「莉音、いい」
ヴィンセントは莉音を引き寄せると、背後から腕をまわして頭を撫でた。
「おまえはなにも心配しなくていい。責任は、すべて私が取るから」
「でも、だってアルフさん……」
莉音は不安げにヴィンセントを見つめ、それから顔色を窺うように早瀬に視線を向けた。
ふたりのやりとりを呆れた目つきで見ていた敏腕秘書は、ややあってから深々と息をついた。
「『おまえ』、ねぇ……」
その眉間に深い皺が寄る。
「ご、ごめんなさい……。大事な社長さん、誘惑するみたいなことして……」
「莉音、それは違う。おまえは誘惑などしていない。むしろ先に手を出したのは私のほうで、おまえにはなんの罪もない」
「でも、でもアルフさん、あれは僕が――」
「わかった、わかりましたとも!」
互いに相手を庇って自分が自分がと言い合うふたりのあいだに、早瀬の声が強引に割って入った。
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