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第1話(2)
「いいですよ、わかりました。なにがあったか知りませんけれども、この週末におふたりの関係は雇用のそれではなく、恋人的な方向に変わったってことなんですね?」
「こっ、恋人だなんて、そんな……っ」
「そうだ」
おろおろと狼狽える莉音の肩を抱いて、ヴィンセントは堂々と告げた。これには莉音のほうがギョッとして、ヴィンセントを振り返る。だが、平然とした顔で早瀬を見据える瞳に、いっさいの迷いも躊躇 いも見られなかった。
「ア、ルフさん……」
「そういうことだから早瀬、口出しは無用だ。今後私は、雇い主ではなく恋人の立場で莉音を守り、自分の責任を果たすことにする」
気負いのない口調で宣言されて、莉音は茫然とヴィンセントの端整な横顔を見上げた。
早瀬の口から、ふたたびふうっと吐息が漏れる。それから、縁なしの眼鏡をくいっと持ち上げると、あらためてふたりに向きなおった。
「わかりました、いいでしょう。そういうことなら私もこれ以上はなにも申しません。立場を利用して関係を無理強いしたというのであれば問題ですけれど、どうやら両思いのようですし、私がとやかく言うようなことではないみたいですからね。もちろん、言いたいことは山ほどありますけど」
『山ほど』を強調して言われて、莉音はふたたび首を竦めるように項垂 れた。
「早瀬さん、ほんとにすみません……」
「いいんですよ、莉音くん。そんな申し訳なさそうな顔しないでください。君はなにも悪くないってことぐらいわかってますから。君が嫌な思いをしていないということならそれでいいんです。私だってそんな野暮じゃありませんからね。想い合ってるふたりのあいだに割って入って、馬に蹴られるような真似はしたくありません」
「ウマ?」
早瀬の言葉に、ヴィンセントが不思議そうに眉根を寄せた。
「ウマというのは、動物の馬のことか? なんでいまの話の流れで、そんなのが突然出てくる」
「おや、知りませんか? 人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえってね。日本ではそういう言いかたをするときもあるんです」
そう説明されても、腑に落ちない顔をしている。日本語に精通しているヴィンセントでも、わからない言いまわしに戸惑うこともあるのだと思うと、なんだかおかしかった。
そんな主を、早瀬はサバサバとした口調でうながした。
「さあ、もう行きますよ。今日は朝から会議があるんですからね。社長のあなたが遅れるわけにはいかないでしょう」
そして莉音には、「いっぱい我儘言って、たっぷり甘やかしてもらってくださいね。お金と包容力だけはある人ですから」と笑った。途端にヴィンセントは「バカなことを言うんじゃない」と渋い顔をする。だが、あらためて莉音を抱き寄せると頬にキスをした。
「なるべく早く帰ってくるから、いい子にしておいで。なにかあったら、遠慮せずすぐに連絡するように」
念を押すように顔を覗きこまれて、莉音ははいと頷いた。その額に、もう一度口づけを落とす。そしてようやく莉音を解放すると、早瀬を伴って出かけていった。
ふたりを見送った莉音は、ひとり玄関に佇んだまま、ふうっと溜息をついた。
もともと優しい人だとは思っていたが、まさかこんな関係になるとは思ってもみなかった。
土曜の夜にああいうことになったときも、怖い思いをしてショックを受けている自分を慰めるための行為だったと理解していたし、ひと晩かぎりのことだと思っていた。だが実際は、昨日も一日中ヴィンセントは莉音を自分のそばから離さず、終始躰を気遣いながらたっぷりと甘やかしてくれた。
思い出して、だれもいないのにひとりで赤くなる。
ふたりがシャワーを浴びてベッドから抜け出したのは、日曜の昼近くのことで、それから前日にデリバリーしたピザを温めなおして食べ、のんびりとした午後を過ごした。
ブランチのあと、莉音はいつもどおりに家事をこなすつもりでいたのだが、今日はなにもしなくていいと言われて、リビングのソファーで新聞を読んだり、ノートパソコンを使って仕事関係のメールや文書をチェックしたりするヴィンセントの横に座らされた。その間、ことあるごとに抱き寄せられ、頭を撫でられて額や頬、唇にキスをされた。
性的な意味合いより、どちらかというと犬か猫でも可愛がっている感じで、けれどもそれがかえって心地よく、莉音も気兼ねなく甘えることができた。
優しく触れる手から自分を思いやってくれる気持ちが伝わってくる。それがとても嬉しくて、幸せな時間だった。
夜になって夕飯はさすがに用意すると言うと、ヴィンセントからは親子丼をリクエストされた。
莉音のアパートで、はじめて一緒に食事をしたときとおなじメニューでの夕食。
食後にまたふたりで映画などを観ながらのんびり過ごした後、十一時近くに寝支度を整えることになったが、莉音は昨夜 もゲストルームではなく、ヴィンセントの寝室で寝ることとなった。
とはいえ、その際にふたたび躰を求められることはなく、ただヴィンセントのあたたかな胸に抱きしめられて眠った。今朝も、先に起きて朝食の支度を調えていると、身支度を済ませたヴィンセントが降りてきて、挨拶がてら軽く頬にキスをされた。欧米風のごく普通の挨拶といった感じで、甘やかな雰囲気もすでに消えていたため、莉音もまた、日常に戻ったのだと思っていた。それなのに――
――僕が、アルフさんの恋人……?
たったいまのやりとりを思い返して、茫然とする。たしかにヴィンセントと躰の関係を持った。これでもかというほどトロトロにとろかされて愛され、昨日もずっと、甘やかされて大切にしてもらった。だけれども、社会的地位のあるヴィンセントと専門学校を中退して求職中の自分とではあまりにも立場が違いすぎて、それ以上を望むつもりは決してなかった。
自分に起こった出来事が、ただ怖くて不安で、そんな自分を抱きしめてくれる手が好きな相手のものだと気づいてしまったから、身のほど知らずとわかっていながらも甘えて縋ってしまった。ただ一度、受け止めてもらえただけで充分だと思っていた。それだけのはずだったのに。
愛される幸せを知ってしまったぶん、これからのことを考えると少し怖かった。
「これから、どうしよう……」
呟く声に、不安と戸惑いが滲む。
自分を狙う人間が何者で、どんな意図や目的があるのか、どうすれば知ることができるのだろうと莉音はひとり頭を悩ませた。
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