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第1話(5)
しばし閉じられたドアを眺めた莉音は、諦めて窓ぎわに置かれた丸テーブルまで移動した。テーブルを挟むように二脚置かれた椅子のうちのひとつを引いて腰を下ろす。張っていた気が抜けると同時に、深い溜息が漏れた。
これ以上話すことはなにもないのだが、まだ帰ることは許されないらしい。
これまでの経緯をざっと思い返して、またひとつ吐息が漏れる。
携帯を出して時間を確認すれば、すでに夜の九時をまわっていた。そういえば今日は、まだなにも食べていないのだったと思い出し、とりあえず昼間、コンビニで買ったペットボトルのお茶をひと口飲んで、それからさらにもう一度、大きく息をついた。
さっきからずっと、溜息しか出ない。ためしにボトルを左頬に当ててみるが、完全に常温に戻っているそれを当てても、なんの意味もなさなかった。
今日中に帰れるのかなと憂鬱な気分で思うが、心も身体も疲れきっていて、それすらもどうでもよく思えた。
しばらくするとチャイムの音が聞こえて、だれかが隣の部屋に入ってきた気配がした。
ドア越しなのではっきりとはわからないが、聞こえてくるのは女性の声と男性の声で、女性のほうはおそらくシャーロットで間違いないだろう。だが男性のほうは、先程の通訳の声とは違うようで、おそらくはそれが、訪ねてきた来客のものと思われた。
ドア越しで会話の内容は聞き取れないし、仮に聞き取れたとしても、莉音には英語はわからない。ペットボトルを手に持ったまま、ぼんやりと窓の外にひろがる景色を眺めやった。
ヴィンセントのマンションで暮らしているあいだに、数えきれないほど眺めてきた東京の夜景。あの窓から見下ろした宝石のような輝きは、いくら眺めても見飽きるということがなかったのに、いま目に映る景色には、なにひとつ心動かされるものなどなかった。
ふと気がつくと、シャーロットの甲高い声が響いていた。なにか言い争いでもしているようで、その声の調子には少しも余裕が感じられない。自分には関係のないことだからと変わらずぼんやりしていたが、なぜかその声が、こちらのほうへ近づいてきたような気がした。
え?と不審に思って思わず振り返る。その目の前で、勢いよくドアが開いた。
現れたのは長身の男で、莉音はその姿を見るなり咄嗟に腰を浮かせた。
それは、このひと月ずっと会いたくて、恋しくて、夢にまで見たただひとりの――
「アルフ、さん……」
無意識のうちに呟いて立ち上がった莉音の許へ、ヴィンセントは大股に歩み寄ってくる。だが、すぐ間近まで来たところでハッと息を呑み、その足を止めた。
『アルフッ』
制止しようと追い縋ってきたのだろう入り口に佇むシャーロットを振り返ると、ヴィンセントはこれまで見たこともないような険しい表情ときつい口調でなにごとかを言った。その剣幕に一瞬ビクリとしたシャーロットが、むきになってなにごとかを言い返す。だが、ヴィンセントはいっさい取り合わず、なおもその場に立ち尽くす莉音を顧みて、いたましげに顔を歪めた。
「莉音、可哀想に。痛かっただろう。遅くなってすまなかった」
差し伸べた手が、状態を確認するようにそっと左頬に触れる。そのまま引き寄せられて、抱き竦められた。
嗅ぎ慣れたコロンの香りに包まれて、莉音の躰から力が抜ける。手に持っていたペットボトルが、ぼとりと落ちて足もとに転がった。
自分に身を預ける莉音をしっかり抱きしめたヴィンセントは、愛おしむようにその頭を掻き抱き、頬を擦り寄せた。それだけで、彼を信じると決めた自分の判断は間違っていなかったのだと、莉音の胸に深い安堵がひろがっていった。
「アルフさん……アルフさんっ」
「いい子だ。もうなにも心配しなくていい。家に帰ろう」
耳もとで囁かれて、莉音はヴィンセントにしがみつきながらうんうんと何度も頷いた。
抱擁を解いて肩に手をまわしたヴィンセントは、莉音をうながして歩き出す。入り口に佇んだままだったシャーロットのまえを素通りし、自分の躰で莉音を庇うようにしながらスイートルームの出口へ向かった。背後でシャーロットがヒステリックに言葉を投げつけてきて、莉音は思わずビクリと反応するが、咄嗟に振り返ろうとするのをヴィンセントは謐 かに、けれども断固とした態度で制した。
「莉音、気にしなくていい。彼女とのことは、あとできちんと私がけじめをつけるから」
肩にまわされた手に力を込められて、莉音は心細げにヴィンセントを見上げつつ、その言葉に従った。
『アルフレッドッ!』
廊下に出て、ドアが閉まる瞬間耳にした悲鳴のような声が心に突き刺さる。
莉音は唇を噛みしめた。
叩かれて当然だと思った。自分は彼女から、愛する人を奪い取ろうとしているのだから――
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