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「莉音、どうか泣かないでくれ。君に泣かれるのはとてもつらい」  困ったように、なだめるように、ヴィンセントは言葉を紡ぐ。 「私を魅了してやまないあの笑顔で、君にはいつも幸せを感じていてほしい。莉音、私ではもう、君を幸せにすることはできないのだろうか?」  あたたかな指先に、涙を拭われるそばから溢れる雫が頬を濡らした。  苦しくて、切なくて、シャーロットの気持ちがわかるのに、どうしても想いを止められない。 「こんなのっ、ダメなのに……。シャーロットさん、いっぱい傷つけて、いっぱい苦しめて、ダメってわかってるのにっ」 「莉音、それは全部私の責任だ。彼女とは私がきちんと話をして、けじめをつける」 「でも、でも僕、アルフさんになにもしてあげられないっ」 「莉音?」 「シャーロットさんと結婚したら、いままで以上の地位と名誉が約束されて、アルフさんはすごい力を手に入れられるって」 「そんなもの――」 「僕、ダイヤの指輪も持ってないっ」  泣きながら必死に訴える莉音を見ていたヴィンセントは、なにかを言いかけて、ふと口を噤んだ。 「莉音、そのことなんだが」  急に口調のあらたまったヴィンセントの様子に、莉音の激していた感情も、瞬時に熱を失っていった。 「莉音は本当に、そのダイヤに心当たりはないか?」 「……え?」  問われて、一瞬目を瞠った莉音はゆるゆるとかぶりを振った。 「ない、です。一度も見たことがないし、うちにそんな高価な物、あるなんて聞いたこともないから」 「指輪は? お母さんかおばあさんは、装飾品の類いをひとつも持っていなかった?」 「ほとんど。ネックレスとかイヤリングくらいならほんの少しだけあったけど、指輪は、結婚指輪と、あと偽物の石がついたのがひとつ。それだけ」 「偽物?」 「ばあちゃんの形見で一応とってあったけど、ただのガラス玉だからなんの価値もないって。でも、すごくきれいで、母さんのお気に入りで」  言ったあとで、莉音はあわてて付け加えた。 「あのでも、全然ダイヤとかじゃないです。大きくて真っ赤な石で、ばあちゃんもずっと、ガラクタだって言ってたから」 「おばあさんが、その指輪を手に入れた経緯は?」 「聞いたこと、ないです。ばあちゃん、僕が高校一年のときに癌で亡くなったけど、亡くなる直前に、どうせなんの値打ちもないものだけどって母さんに渡して。でも、偽物でもすごくきれいだったから、母さん、ときどき指に嵌めて、ちょっとだけお姫様気分になれるねって……。――アルフ、さん?」  いつになく難しい顔をしているヴィンセントの様子に、莉音は急に不安をおぼえはじめる。  しばらく考えこんでいたヴィンセントは、やがてふっと息をついた。 「莉音、レナードが多恵に贈った指輪は、おそらくそれだ」  一瞬、言われた意味がわからなくて、莉音はきょとんとヴィンセントの顔を見つめた。 「……え? でもダイヤ……」 「そう。それがその石だ」  莉音はなおもヴィンセントの顔を見つめつづけ、やがてゆっくりと瞬きをした。 「え、でも、色……赤い……」 「赤いダイヤモンド。レッドダイヤと言って、カラーダイヤの中でも極めて希少価値が高く、市場でも滅多に取り引きされることはない。レナードが多恵に贈ったのは、そういう宝石だ」  しばし茫然としていた莉音は、意味もなく視線を彷徨(さまよ)わせ、それから最後にもう一度、確認するようにヴィンセントの顔を見た。ヴィンセントは、そんな莉音に肯定の意味を込めて頷きかける。 「え……、ほんとに? じゃあ、あれ、本物……?」 「実物を見ていないのではっきりしたことは言えないが、おそらくは」  ヴィンセントの言葉を聞いた途端、莉音の顔から血の気が引いていった。 「莉音、どうし――」 「どうしようっ!」  すっかり涙の引っこんだ目を驚愕に見開いて、莉音は小さく叫んだ。

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