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「あ、どうしよう…っ。あれ、本物? まさかそんな……」
「莉音、どうしたんだ。莉音?」
「アルフさん、そのダイヤって、ひょっとしてものすごく高いものなんですかっ? 普通のダイヤより!?」
「まあ、そうだが」
「高いってどれくらい!? 百万とか二百万とか? ……まさか、一千万円とか、そういう金額じゃない、です…よね……?」
おそるおそる尋ねる莉音の顔をしばらく見ていたヴィンセントは、ややあってから口を開いた。
「正確なところは私にもわからないが、おそらくいまならば、このペントハウスがいくつかまとめて買える程度の価値は」
聞いた途端、莉音は気が遠くなりそうになった。
これだけの立地で最上階まるまるワンフロアー所有しているのだ。その価値が、一億二億程度では済まないことくらい、莉音にでもわかる。ひょっとすると、さらに桁が違うかもしれない。それをいくつか――
「莉音! 莉音、どうしたんだいったい。しっかりしなさい」
しばし空 を眺めていた莉音は、肩を掴まれてようやくヴィンセントを顧みた。
「ア、ルフさん、どうしよう。僕……」
「うん、どうした? 落ち着いて」
「その指輪、もうないです」
「え?」
怪訝 そうに顔を覗きこまれて、莉音はくしゃりと表情を歪ませた。
「母さん、偽物だけどすっごくきれいだからって、ずっと大事にしてて。すごくお気に入りで。だから僕、向こうに――天国に行ってもずっと身につけていられるようにって、母さん亡くなったとき、お棺に入れてあげて……」
「莉音……」
美しい輝きの双眸 を瞠って、ヴィンセントは茫然と呟いた。
「どうしよう、アルフさん。僕、そんなに価値のあるものだなんて全然知らなくて」
先程とは違った意味で泣きそうになっている莉音をしばし見つめていたヴィンセントは、しかし不意に、クッと肩を揺らすと笑いはじめた。
「アッ、アルフさんっ! 笑いごとじゃないですってば! 僕、大変なことしちゃったのにっ」
莉音は半ベソをかいて抗議する。だがヴィンセントは、なおもおかしくてしかたがなさそうに笑いつづけた。
取り返しのつかない事態にかつてないほど動転していた莉音は、すぐ横で大笑いするヴィンセントを茫然と見ているうちに少しだけ気分が落ち着いてくる。おかげで、それ以上は取り乱さずに済んだ。
やがて笑いをおさめると、ヴィンセントはやわらかな笑みを浮かべて莉音の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
「すまない、あまりにも想定外のことで。だが、とても莉音らしい」
「そんなこと言ってる場合じゃっ――」
「莉音はお母さんのためにしたことを、後悔しているか?」
真面目に訊かれて、莉音は困惑する。
「わかり、ません。母さんのためだから、そういう意味では後悔はないけど、でも、そんなにすごいものだったなんて知らなかったから……。あの、さっき、この家がいくつか買えるくらいって言ってましたけど、具体的に、何個くらい……?」
莉音の質問に、ヴィンセントは笑みを深くするばかりで答えをはぐらかす。
「知っていても、私は君ならおなじことをしたと思うのだけれどね」
「そっ、そんなのわかんないじゃないですか! むしろ知ってたら怖くてそんなことできません! アルフさん、僕のこと買いかぶりすぎですっ。っていうか、ほんとにいくらの値打ちが――」
「そんなことはない。私の知っている莉音なら、きっとそうした」
断言されて、莉音は一瞬押し黙った。
「……でも、あのダイヤがあったら、アルフさん、PSグループの経営権も手に入れられたかもしれないのに……」
「莉音」
注意を引くようにヴィンセントに手首を掴まれて、莉音はハッとした。
「私はそんなものに、はじめから興味はない」
ヴィンセントは莉音に淡々と説いて聞かせた。
「自分で起ち上げた会社があって、その事業もおかげさまでいまのところとてもうまくいっている。私はね、莉音、自分と社員とその家族が充分満足な暮らしを得られるのなら、それ以上を望むつもりはない。といっても、やはり自分の手で会社を大きくして、成功をおさめることはそれなりにやりがいがあるからね。今後もさまざまな挑戦はしていきたいと思っている。だが、他人の築き上げた権力には、なんの興味も関心もない。そこに関心があるのなら、私はとうの昔にシャーロットと結婚している」
「アルフさん……」
「私は莉音が莉音だから好きになった。レナードの孫だからだとか、PSグループの筆頭株主に次ぐ権威を継承する可能性があるからだとか、そんなことはどうだっていい。莉音が贅沢な暮らしを望んで、王子様のように傅 かれたいと願うなら、私がその願いをすべて、この手で叶えよう」
「そんなこと、僕は……」
莉音は力なく首を横に振る。
「莉音、私は今回、アメリカでPSグループの現CEO、ダニエル・スペンサーに面会を求めて直談判してきた」
莉音はその言葉に息を呑んだ。
「レナードとのあいだにあった約束ごとをすべてあきらかにしたうえで、シャーロットと結婚する意思はないことを明確にし、一族の何者かが遺言書にある株式譲渡の権利を得るために影で根回しをしていることも伝えてきた。それから、私の莉音にこれ以上手を出すようなら、こちらも容赦するつもりはないとね」
直談判というより宣戦布告が正しいんだが、とヴィンセントは笑った。
「アルフさん、でも僕……」
「そういった諸々の話をつけたうえで、今回、あらためてダニエル本人から莉音の意思を確認するよう託されてきた」
「僕、の……?」
そうだとヴィンセントは頷いた。
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