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第7話 あなたに出会うまで【ユウキ】

 元カレから別れ話を切り出されたその日。関東地方には、今年一番の寒波が訪れた。 待ち合わせた店に入った瞬間、かじかんだ頬や指先は温められたはずなのに、目線が合った瞬間、ユウキの心は凍り付いた。  あの時の彼の表情を、ユウキは今も忘れることができない。  俺は、今日、振られるんだな。 今度こそ、二度と、よりを戻せない別れなんだな。  ユウキは、悲しい確信を抱きながら、彼の向かいの席に腰掛けたのだった。  八年前、留学先だったアメリカの大学院で出会って恋人になって以来、何度か、別れては復縁して、を繰り返して来た。お互い三十代も半ばに近づいてきた今こそ、これまで以上にステディな関係を結びたいと、ユウキは彼にプロポーズしていた。  その日聞かされた、彼の返事は「ノー」だった。  同時に、二つのことを彼から告げられた。  韓国に残した両親を安心させるために、韓国人女性と結婚することにしたこと。  だから、ユウキとの関係は終わりにしたいこと。 「そうか。そりゃあ、両親のことを考えたら、孫の顔も見せてやりたいだろうなぁ」 告げられた瞬間は、そうとしか思えなかった。元々、彼がバイセクシャルであることは知っていたし、自分と別れている間に女性とも付き合っていたことも知っていたから。  彼は、気まずそうな、とは言え、長く付き合ってきた相手に対する同情や申し訳なさも混じった複雑な表情をしていた。  しかし、ユウキの胸を一番(えぐ)ったのは、そこに、既によそよそしさが漂い始めていたことだった。  愛し合っていると信じていた相手が、他の誰かと一生を共にすることを決めていて、彼の人生にとって既に自分は蚊帳(かや)の外なのだ、と思い知らされたことは、ひどく(こた)えた。  ユウキが心の痛みを認識したのは、帰宅して、お気に入りの入浴剤を入れたお風呂に浸かって、冷えていた身体が温まり始めたことを感じ、ふう、と、息をついた瞬間だった。  温かいお湯に包まれて、自分が、どれだけ身体をこわばらせていたのか、どれだけ心を麻痺(まひ)させて、悲しみと衝撃から自分を守っていたのか、思い知らされた。  自分は二股を掛けられていたのだろうか。そんな考えが、一瞬、ユウキの脳裏をよぎった。しかし、自分が彼にとって不要な存在になった事実の前では、もはやどうでも良い些細なことのように感じ、ユウキは、その問題について考えることを放棄した。  バスタブの中で、その大きな身体を縮こまらせ、自分自身の腕でかき抱いた。  自分は今、この世界で、たった一人だ。  痛いほど、孤独を感じた。  元カレが、いかに、自分の世界を鮮やかに彩っていてくれていたか。  留学中、二人でオンボロ車でアメリカの国立公園にドライブに行ったら、滅多に車が通らないど田舎で故障してしまい、野宿したこと。それなのに、つい盛り上がって、車中で愛し合ってしまったこと。その日、二人で見上げた夜空は、日本では見れないくらい、たくさんの星が(またた)いていたこと。  大事な試験の前に風邪で寝込んだユウキを、彼が看病してくれて、韓国式のお(かゆ)を作ってくれたこと。お蔭で、無事、ユウキは試験前に治ったのに、彼に風邪が移ってしまい、今度はユウキが看病し、日本式のお粥を作ってあげたこと。  些細なことで喧嘩して、二人で(わめ)き、泣き、そのうちに、「あれ? 何で俺たち喧嘩してたんだっけ?」と、いつの間にか仲直りしていたこと。  大学院卒業後、末期(がん)の母を看取(みと)るため日本への帰国を決めたユウキのために、もっと好条件の就職先もあっただろうに、彼も日本で就職先を探してくれたこと。  母を、そして父を立て続けに(うしな)った時も、傍に無言で寄り添ってくれたのは、彼だった。  彼と共に過ごした大切な瞬間を思い返すと、溢れ出る涙を、止めることはできなかった。  身体と心の一部を失った、不完全な人間になった気がした。 ***  会社勤めの社会生活は、どうにかこなしていた。同僚と世間話をすれば、心にもない笑顔を浮かべることすらできた。  しかし、ユウキを取り巻く世界は、色を失い、味を失い、悲しみ以外の感情を失っていた。  ゲイセクシャル向けの出張ホストというサービスの存在を知ったのは、偶然だった。  ゲイの中には、相手に関しては見境なしという人もいるが、ユウキは、素性の分からない相手とセックスする気にはなれず、その手のサービスや発展場に足を運んだことはなかった。  だが、新たに真剣な恋愛を始めるには傷付きすぎている今、ひとときの安らぎや慰めを、割り切ってお金で買うというのは、『アリかも知れない』と思えた。  申し込んだ店から派遣されて来たのが、サトシだった。  お店には、元カレと同じ『身長が百八十センチくらいのネコの子』とだけ電話で伝えたが、ニューグランドホテルに現れた彼は、ユウキの予想以上に、若くて可愛らしかった。礼儀正しい態度や性的な魅力も好ましかった。  何より、とても仕事とは思えない彼の自然な優しさに、ユウキは惹かれた。  八年付き合った恋人に振られた直後だと、のっけから重たい話を打ち明けたにも拘わらず、サトシは引いたりしなかった。むしろ、話し掛けるタイミングや内容にまで気を遣い、さり気なく温もりを感じさせてくれ、甘える振りで自分をいたわってくれた。  彼を抱き始めた時は、元カレを失った心の隙間を埋めたいだけだったが、ベッドで彼の見事な手管を見せつけられ、途中から妙な対抗意欲が湧いた。取り澄ましたプロの仮面を被っていたサトシを快楽で揺さぶると、困惑したような表情をチラチラと覗かせた。しかし、客に素の反応を見せることへの躊躇いや葛藤からか、彼は僅かに抵抗を示した。イヤイヤをする彼の子どものような仕草に、余計、ユウキは煽られた。 『素顔のサトシを見たい、抱きたい』と思った。丹念に攻めると、遂に彼は本能に身を委ねた。そして、意識を飛ばすほどの快感を得て、そのまま寝付いてしまった。  サトシを一晩中腕に抱いて眠ったのも、ユウキにとっては、楽しいハプニングだった。 誰かの体温を抱き締めて眠るのは、久し振りだった。こんなに心安らぐことだというのも、忘れていた。  サトシは、ユウキが元カレをまだ忘れられる状態でないことも見抜いていた。別れ際に、「無理して忘れることはない」とまで優しい言葉を掛けてくれた彼に、「また会いたい」とユウキが思ったのも、当然だろう。  初回は、とにかく元カレに振られた痛手を少しでも和らげたい一心だったが、二度目に彼を指名で呼んだ時は、サトシ自身への興味が主な動機になっていた。  だから、昼間のデートで、彼が無邪気な笑顔と、時折、自分に甘える素振りすら見せてくれたことは嬉しかった。身体を動かすデートコースを提案してくれたのも、きっと、気分転換できるようにと気を遣ってくれたのだろう。それを口に出さないところも含めたサトシの優しさに、改めてユウキは感謝した。  抱き合った時は、自分の腕の中で妖艶に喘ぎ身悶えるサトシに強く欲情した。彼が積極的に自分自身の快楽をも求めようとする姿にも、ときめいた。  反面、彼が、他の客にも同じようにサービスしているのかと思うと、いたたまれない気持ちにもなった。  彼が与えてくれる安らぎやときめきが大きい分、反動で、別れた後は、寂しさを再認識させられた。そして、自分自身のネガティブな妄想に苛まれた。  我慢し切れず、彼本人に、普段どのくらい客と会っているのか、直接尋ねてみた。しかし、『客として金を払ってもらった時間以外は、あなたには関係のないことだ』とばかりに冷たくあしらわれ、更に心を引き裂かれた。 (今頃、サトシは、どんな客に抱かれているんだろう。あの優しい笑顔や甘い囁きで、客の心を虜にしているんだろうか)  それはもはや、嫉妬と独占欲以外の何物でもなかったが、前の失恋の傷すら生々しいユウキは、自分の気持ちを深く考えることから目を逸らした。  サトシに惹かれる反面、真剣に愛して、裏切られて深く傷付くのは、怖かった。 「期間限定の契約で、彼の独占権を買う」  それが、ユウキが思い付いた解決策だった。 

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