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第15話 思い出せなくなるその日まで【勇樹/訓志】

 学生時代の友人と旧交を温めた後に勇樹(ゆうき)が帰宅した時、訓志(さとし)は真っ暗なリビングに呆然と座り込んでいた。 「ただいま。訓志、どうしたの? 電気も点けないで」  照明を付けながら勇樹が声を掛けると、訓志は目を逸らしたまま、無言で封書を差し出した。  その日届いた会社からの封書には、『海外赴任に際してのご案内』と表書きしてあった。 「あ……」  勇樹が状況を理解して口ごもったのを見るや、訓志はキッと勇樹を見上げた。 「これ、どういうこと? 僕にも分かるように教えてよ」 「……ごめん。もっと早く、俺の口から説明すべきだった」  勇樹が溜息交じりに言うと、訓志は尖った声をあげた。 「謝ってほしいわけじゃないよ! ……勇樹、海外に転勤するの?」 「……うん。訓志との契約が終わった後にね。六月末ぐらいに」 「いつ決まった話なの?」 「訓志と契約した後すぐに、会社から辞令が出たんだ。やりかけた仕事もあるから、すぐには行けないって説明して、赴任時期は遅らせてもらった」 「どこに行くの?」 「アメリカのカリフォルニア州。サンフランシスコの近く。シリコンバレーって言った方が分かりやすいかな」  訓志は、今にも零れ落ちそうなほど涙をいっぱい溜めた瞳で、訴えるように勇樹を見上げた。 「……なんで、僕に教えてくれなかったの……?」 「……ごめん」  勇樹は胸が詰まり、それ以外の言葉が思い付かなかった。  これが、勇樹が恋人契約後間もない頃から、訓志に隠していた秘密だった。  自分が日本を離れる事実を知った時の訓志の反応を知るのが怖かった。  もし「ふーん、そうなんだ。元気で頑張ってね」などと平然と言われたら、胸が潰れるのではないかと恐れるあまり、どうしても訓志に事実を告げることができなかった。  しかし今、訓志が、自分の海外転勤と、その事実を隠していたことに対し少なからぬショックを受けていることを目の当たりにし、自分の選択 ―― 都合の悪い事実から目を逸らし、訓志に正直に告げることから逃げる ―― が過ちだったことに彼は気付いた。 「……そりゃあ、どうせ僕は、お金で三か月だけ買われた身だよ……。契約が終わった後、勇樹がどうするか教えろなんて言う権利もない。  だけどさ……。契約が終わったら、全く無関係の赤の他人とでも言うの……? 僕は、そんな風に勇樹に接してた……? 違うでしょ?  僕は、勇樹が海外に行っちゃうこともショックだったけど、そういう大事なことを僕に話してくれなかったこと、話す必要がない存在だって思われてたことが悲しかった」  訓志は目を伏せて大粒の涙を零しながら、切なげに声を絞り出した。  勇樹は、訓志の言葉にハッとした。 『自分はお金で買われた身』  そんな風に訓志が引け目を感じていたなんて、気付いていなかった。皮肉なことに、お金を払うと言い出した勇樹自身は、すっかり、二人の関係が金銭が絡んだものだという意識を失っていたのだ。 「……違うんだ、訓志。それは違う」  訓志を軽んじていたから言わなかったのではないと、伝えたかった。勇樹は、訓志の肩にそっと手を乗せた。 「何が違うんだよ!!!!」  訓志は、勇樹の手を振り払い、悲痛な叫び声をあげた。 「どうせ、お金さえ払えば良いって思ってたんだろ?! ペットでも愛人でもないって言ったのは誰だよ!! ペットのほうが、よっぽどマシな扱いされてるよ。用が済んだら使い捨てだなんて……。  僕は、モノじゃない!!!!」  訓志は泣き叫び、勇樹の家を飛び出した。  慌てて追い掛けたが、無情にも、エレベーターは訓志を乗せて一直線に下へ向かった後だった。非常階段を一段飛ばしで駆け下りたが、エントランス周りに、既に彼の姿は見当たらない。呼吸が苦しく、胸は激しく脈を打っているが、これが走った後の苦しさだけではないことに勇樹は気付いていた。  自分が臆病だったばかりに、結果として、訓志の自尊心を一番傷付けることをしでかしてしまった。そのことに気付いた今、彼は猛烈に悔い、焦っていた。  訓志は、いつも対等な存在として扱われることを望んでいた。ホストという職業にプロ意識をもって取り組み、一人の独立した大人の男だと自負していた。だから、恋人の契約を結ぶ時に『ペットや愛人扱いはごめんだ』と明確に意思表示してきたのだ。勇樹も、恋人同士は対等な関係で当然だと思う。彼の気持ちも尊重したかった。  しかし、この一番大事な局面で、彼を簡単に切り離せる所有物のように扱っていたと思わせてしまった。  謝りたくて何度も電話したが、出てはもらえない。メールもメッセンジャーも、返信が戻ってこない。既読にすらならない。  彼の行きそうな場所すら思い付かない自分は、一体、訓志の何をどう大事にしてきたと言えるのだ。勇樹は自分を責めた。 ***  翌日、勇樹が会社に行っていて不在のはずの時間、訓志は勇樹の家を訪れた。  三か月にも満たない関係だったのに、こんなにあちこちに自分の痕跡を残していたのか。訓志の胸は詰まった。何度か泣きながら、彼の家にあった自分の荷物をまとめた。  そして、一通の手紙を残した。  彼の家を去る前に、最後に一度振り返って、名残惜し気に眺めた。  訓志の自宅はシェアハウスだったので、彼自身の家具や荷物は殆どない。どうしても手放したくない物だけ宅配便に出し、残りはシェアハウスに置いていくことにした。今月末で退去するという書類一枚にサインすれば、全てが終わった。  店長にも電話した。事情を説明し、自分の都合で、勇樹との契約は途中解除にしてもらいたい。お店は辞めたいと話した。 「そうか……、大変だったな。長い間お疲れ様。これからどうするんだ?」  店長は、訓志に同情的だった。 「とりあえず、実家に帰ります」  訓志は感情を抑えて淡々と答えた。 「いつ?」 「今夜二十時に、東京駅から高速バスで」 「こ、今夜ぁ? ……えらい急な話だな」  店長の声が、驚きで裏返る。 「ごめんなさい」  訓志は溜息交じりに、急な旅立ちを謝った。

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