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第16話 きみなき世界【勇樹】

 勇樹(ゆうき)が帰宅した時に見たものは、訓志(さとし)の不在と、自分の人生の空虚さだった。  見渡す限り、家にあった訓志の荷物は全てきれいになくなっていた。  彼の服や靴、化粧品などがあった場所は、ぽっかりと空いたまま。その空白は、まるで訓志を失った自分の心の隙間のようだ。あまりの寒々しさに、訓志が自分の人生に現れる前、たった三か月前の状態に戻っただけとは、にわかに信じがたかった。  昨夜の今日で、きれいさっぱり荷物を持ち去られるほど、訓志を怒らせ、傷付けてしまったとは……。  この期に及んで謝って許してもらおうと考えていた自分が、いかに甘かったか。痛切に思い知らされ、勇樹は唇を噛んだ。呆然としながらも、訓志が残した痕跡を必死に探した。飼い主とはぐれた犬が、主人の匂いを嗅ぎ取ろうとするかのように。  一番(こた)えたのは、寝室から、彼の匂いのするものが一切なくなっていたことだった。リネンは洗い立てのものに交換されている。一昨日まで二人で仲良く(くる)まっていたシーツや、彼に部屋着として貸していた勇樹のTシャツは、既に洗濯された後だった。  彼は、この部屋に匂いすら残していってくれなかった。せめてシーツに顔を埋め、もう一度彼の匂いを、この部屋に彼が存在していたことを感じたかった。  どれだけ、訓志が、自分の心の大事な場所を占めていたか。  どれだけ、彼が、自分の人生に、温もりと優しさを与えてくれていたのか。  彼と別れた後のことを想像して覚悟を決めていたつもりだったが、全くイメージなどできていなかったのだ。失ってから、いかに彼が自分にとって大切な人だったかを痛感している己の愚かさに、頭を殴り付けたい気分だった。  キッチンで、水の入ったグラスに差された使いかけのネギを目にした時は、いつも彼が作ってくれた温かい家庭料理を思い出し、強い寂寥感(せきりょうかん)に襲われた。  そして、ダイニングテーブルに一通の手紙が残されていたのを見つけた。  その手紙に目を通し、彼は自分の本当の気持ちを強く確信した。  訓志に対する自分の気持ちは、同情なんかではない。愛なんだ。  彼を今、引き留めなければ、自分は一生後悔するだろう。 《勇樹へ  たくさんの幸せを僕にくれて、ありがとう。  短い間だったけど、勇樹みたいな、素敵でちゃんとした人とお付き合いできたのは、僕のような社会の落ちこぼれには夢みたいな幸運でした。  『訓志だって、やればできる』って励ましてくれたこと。僕をバカにせず、根気強くプログラミングや英語を教えてくれたこと。すごく自信になりました。  見たことも食べたこともなかった外国の食べ物を通じて、世界の広さを教えてくれたこと。いつか僕も行ってみたいって目標ができました。  何より、元カレさんの身代わりだったかもしれないけど、本当に勇樹に愛されているような気持ちになれたこと。一番幸せで嬉しかったです。  きっと気づいてたと思うけど、僕は最後のほうは勇樹に『好き』って言わなかったと思う。  それは、僕が本当に勇樹を好きになってしまったからです。  契約が終わったらお別れすることが最初から決まってる、期間限定の恋なのにね。  こんな気持ちでは、もう勇樹の傍にはいられません。だから、元カレさんの結婚まで一緒にいるって約束したけど、これで終わりにさせてください。一方的に約束を破って、ごめんなさい。  欲深い僕は更に夢を見ていました。映画『プリティ・ウーマン』みたいな結末が、もしかしたらあるんじゃないかって。  でも、おとぎ話は、しょせん、おとぎ話なんだよね。夢は終わりです。シンデレラの馬車はカボチャに戻り、ジュリア・ロバーツではない僕は、一人のホストに元戻りする時間が来たみたいです。  勇樹にもらった自信や目標を力にして、僕も頑張ります。 (これを機にホストの仕事は辞めるつもりです)  勇樹も、身体には気を付けてアメリカでも頑張ってください。寝る時は、せめて下着だけでも着るようにね。冷えちゃうから。  勇樹が健康で幸せでありますように。遠くに離れていても、いつも祈ってます。                   訓志 追伸:桜庭さんに撮ってもらった勇樹と僕の写真は、記念にもらっていきます。よく考えたら、僕は勇樹の写真、一枚も持っていなかったので》  これだけ素早く行動する訓志のこと。もしかして出張ホストの店すら辞めているのではないか。勇樹は、慌てて訓志の派遣元の店に電話した。  聞き覚えのある声の男性が出た。 「そちらのサトシ君と三か月契約している本條(ほんじょう)と申しますが」 「……あぁ! サトシがいつもお世話になっておりまして……って、言いたいところなんですけど。   本人からどこまで聞いてるか分からないんですが、彼、あなたとの契約、途中解除にしてほしいそうなんです。あくまで彼本人の都合ということで」  彼は、勇樹に申し訳なさそうに言った。 「……そうですか……。ちなみに、彼の今の居場所は分かりますか?」 「んー……。申し訳ないんですが、ホストの個人情報はお伝えできないんです。しかも彼、もう店を辞めましたし。 ……そういや、今夜、東京駅から二十時の高速バスで実家帰るって言ってたかなぁ。 でも、あなたのこと本気で好きになっちゃって辛いって言ってたので。あいつの気持ちに応えられないなら、黙ってこのまま行かせてやってもらえませんか?」  男の声は、訓志に対するいたわりや同情に満ちていた。しかし、『気持ちに応えられないなら追ってくれるな』と釘を刺しながらも、一番肝心の情報を教えてくれた。  ホストとしての訓志を長年見てきたはずの男が、勇樹の本気次第だ、と言ってくれたのだ。 「……それだけ教えていただければ、十分です。こちらこそ、お世話になりました」  勇樹のシンデレラが旅立つ二十時まで、残された時間は僅かだ。

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