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第2部・第5話 誘惑 (1/3)

 シリコンバレー最大手だという弁護士事務所は、東京二十三区の区役所くらいの大きさはありそうだ。その事務所の一番広い会議室の入口には、LGBTの象徴・レインボーフラッグがはためく。勇樹(ゆうき)の同僚から頼まれ、今日はLGBT支援NPOの資金集めパーティーに二人で参加する。  会費を払い、二人は会場に入る。既に三十人以上ゲストがいる。勇樹の顔を認めた男性がすぐに歩み寄ってくる。この人が同僚なのだろう。 「やあ、ユウキ。今日は来てくれてありがとう。……初めまして」  にこやかに勇樹に挨拶し、訓志(さとし)に向かって名乗ると、彼は手を差し出してきた。 「初めまして、サトシです」  訓志も控え目な笑顔を浮かべ、彼の手を握り返す。 「ええと、サトシはユウキのパートナー?」  彼は、勇樹と訓志を交互に眺めながら聞いた。 「そうだよ。日本にいた時からの恋人。プロポーズして、アメリカについてきてもらったんだ。こないだ結婚した」  見せつけるように、勇樹は訓志の腰に手を回し、身体を密着させる。『この男は俺のものだ。手を出すな』と言わんばかりの態度に、勇樹の同僚は苦笑いを浮かべつつ、礼儀正しく祝福の言葉を述べた。 「結婚おめでとう! ユウキも、ゲイ好きのする良い男だけど、確かに、サトシはすごくキュートで可愛いね。心配する気持ちも分かるよ」  一瞬ムッとした表情を浮かべた勇樹を見て、彼はプッと噴き出し、勇樹の背中を軽く叩いた。 「サトシにぞっこんなんだなぁ。そんなに夢中になれる相手を見つけて、しかもプロポーズにイエスと言わせたユウキが羨ましいよ。ちなみに俺、ボーイフレンドいるから。今日も来てる。ほら、あそこに」  彼が手を振ると、髭濃い目の男性が手を振り返す。大柄で筋骨たくましく、訓志とは全くタイプが違う。ニヤリと笑い、再び勇樹の肩を叩いた後、彼は二人の傍を離れてボーイフレンドと合流した。他の知り合いに挨拶に行くようだ。  勇樹は毒気を抜かれた表情で立ちつくしていたが、隣からの訓志の視線に気づくと、バツ悪そうに咳払いをした。 「……俺、飲み物取って来るよ。訓志はソフトドリンクが良いよな?」  こんな短時間離れるだけでも、勇樹は訓志の髪を撫で、唇に小さくキスして、名残惜しそうに腰から手を離す。 (はぁ……。早口すぎて、何言ってるか全部は分からなかったけど。要するに、勇樹が僕を溺愛だって、からかったんだよな? まぁ確かに、アメリカに来てから、愛情表現がすごいもんな……)  溜め息をつき、何気なく周りを見渡すと、多くの男性と目が合った。大半の人が頬を軽く染めて目を逸らしたが、数人は、逆に色目を送ってくる。言葉は分からなくても、表情や態度で、訓志は、ゲイの間で注目されていることに気付いた。 (うええっ……! アメリカのゲイは、アグレッシブだな! あんなに勇樹が僕にベタベタしてたのに、気付いてないのか? 気付いてても、こうなのか? 自慢じゃないけど、僕、日本でも、そこそこモテてたよ? それにしても、ここまで注目されたことはなかったぞ)  アメリカのゲイシーンでは、どう振る舞えば『その気はない』を適切に表現できるのだろう。訓志は困惑して目を伏せ、唇を噛んだ。てっきり真面目なイベントだと思っていたのに。まさかこんなところで、こういう洗礼を受ける羽目になるとは。背筋を伸ばし、少しツンとした表情を作った。『気軽に話し掛けないで』というポーズだ。勇樹は、ドリンクカウンターの前で別の知り合いに捕まっている。  資金集めパーティーだけに、会場内には食べ物や本を売っているブースも出ている。訓志は暇つぶしに古本コーナーを冷やかすことにした。 (僕なんかに、英語の本は無理だよな……)  猫に小判だと思いつつ、本を眺める振りをしていたら、写真集コーナーを見つけた。これなら、言葉があまり分からなくても支障はない。中でも訓志の目を引いたのは、LGBTコミュニティのアイコンでもある、レディ・ガガとデヴィッド・ボウイだった。一度はアイドルの道を諦めた訓志だが、勇樹と出会ってから、改めてコツコツと自分の音楽をやり始めて以来、自己の世界を確立したミュージシャンには強い関心を持っていた。 「ガガ、好きなの?」  控え目に、古本コーナーの売り子をしていた男性が話し掛けてきた。 「ええ。彼女の音楽も好きですし、生き様も魅力的ですね」  少し難しい説明だったので、所々つっかえたが、彼は礼儀正しく、最後まで訓志の話に耳を傾けてくれた。 「君、もしかして、音楽やる人?」 「そうです。なんで分かったんですか?」  訓志は驚いて目を丸くし、初めて男性の顔をまじまじと見つめた。どことなく、ハリーポッターのダニエル・ラドクリフを思わせる風貌だ。鳶色の髪はふさふさしており、丸い眼鏡を掛けている。その奥の青い瞳は優しそうだ。 「……さっきから、ミュージシャンの写真集ばかり見てたから」  彼は訓志に見つめられ、少し耳を赤くして目を逸らし、モゴモゴと答えた。 (随分シャイな人なんだな)  きっと、じろじろ見たら居心地が悪いだろう。訓志は手元の写真集に目を落とした。 「こっちに、ガガの楽譜もあるよ」  眼鏡の彼は、小声で囁くように訓志に楽譜本を差し出した。 「ありがとう。じゃあ、写真集二冊と楽譜を買います」  訓志が微笑むと、彼も控えめな笑顔を浮かべた。 「重たいから、パーティーの間、君が買った本は預かっておいてあげる。帰りがけに寄ってよ。念のために、名前と携帯の番号を教えてもらえる?」  手渡された付箋に書いて返すと、彼は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。 「ありがとう」  訓志は改めて勇樹を探す。 『勇樹、お知り合い? 僕にも紹介してよ』と話の輪に入れてもらおうと、一歩踏み出した時、横から、腕を取られた。  はっと息を呑んで振り向くと、一人の東アジア系男性がいた。身長は訓志と同じくらいだが、鍛え上げられ、かつ、しなやかそうな身体つきだ。年齢は訓志より少し上だろうか。滑らかな肌、黒い直毛の短髪。切れ長の目は意志が強そうだが、笑うとえくぼができて、可愛らしくもある。 「やあ、初めまして。君、ユウキのパートナーのサトシでしょ? 彼から、君の話は聞いてたよ。僕、ジェイソン」  彼が名乗った名前には聞き覚えがあった。 「あぁ……、同じ会社で、よくジムでご一緒してるとか……」  ただでさえ、大勢の外国人ゲイから舐めるように見つめられ、横から突然話しかけられて、うろたえていた訓志だ。余計に英語はたどたどしくなる。口ごもる訓志の姿に、彼は、すうっと目を細めた。 「家でも僕の話をしてくれてたんだ? 嬉しいな。彼とは会社のジムでよく一緒してるよ。ユウキは、アスリートとしてもカッコいいけど、素晴らしいエンジニアだよね。僕の直属上司じゃないんだけど、隣のラインのマネージャーだから、技術的に迷った時、よく相談に乗ってもらってるんだ」  口元には愛想よく笑みを浮かべているが、目は細められたままで笑っていない。しかも、話すスピードは極端にゆっくりになった。 (これって、まさか『お前の英語力じゃ、これくらいゆっくりじゃないと理解できないだろ』って嫌味? なんで英語力でディスられなきゃいけないんだ? 勇樹はアメリカ国籍も持ってるけど、そもそも日本人なんだ。彼と僕は日本で知り合って、お互い好きになったんだから、英語力なんか関係ないのに。何言ってるんだ、こいつ)  訓志の心の声が聞こえたかのように、彼は話を続ける。

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