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第2部・第7話 誘惑 (3/3)

 連れられて来たパーティー会場で、勇樹(ゆうき)と小さな(いさか)いをした訓志(さとし)は、頭を冷やそうとお手洗いに行った。その帰り道、知らない男に話し掛けられ『壁ドン』されてしまった。  ここはパーティー会場から目と鼻の先だ。大声をあげれば、確実に誰かに聞こえるだろう。これ以上変なことをされないよう警戒しながら、訓志は相手の出方を窺った。 「……もしかして怖がらせちゃった? ごめんね。ちょっと強引だったかな。でも君、年上の男にずっと引っ付かれてたからさ。一対一で話したくて、チャンスを狙ってたんだ」  目の前の男は体格は良いが、童顔で、少しはにかんだように微笑む表情は少年のようだ。 (こういう、一見少年ぽいのに手練(てだ)れってタイプは、手ごわいんだよな……)  彼のフレンドリーな口調や表情に、むしろ警戒心を強めて冷たい流し目をくれる訓志に、さすがに彼も苦笑いした。 「そんなに警戒しないで。ただ、ちょっと話してみたかっただけなんだ。君、すごく可愛いんだもん。ねぇ、どこから来たの?」 「ロスアルトス」  目線を逸らして、ややぶっきらぼうに訓志は答える。 「あぁ、それは今住んでる所でしょ? 出身はどこなの?」 「日本」  ようやく会話の糸口を掴んだと、彼は意気込んで話し始めた。 「日本か! 東京には行ったことあるよ。俺、ラーメンとドラえもんが好きなんだ。……ちょっと待って」  おもむろに彼がシャツのボタンを外し始め、一瞬慌てたが、見せようとしたものは、下に着ていたドラえもんプリントのTシャツらしい。訓志が驚いた表情になったのを確かめ、ドヤ顔になる。 (良い大人が、ドラえもんTシャツはないだろ。さては、ナンパのネタにしようと思って、わざと着てきたな? このドヤ顔も「可愛い」って言われてるんだろうけど……) 「可愛いTシャツだね」  さすがに何もリアクションしないのは失礼かと、愛想笑いを浮かべてお世辞を述べた。スッと壁際から抜け出そうとしたが、彼は訓志の肩に手を乗せて、離してくれない。それどころか、距離を詰めてくる。 「君って、あんまり喋らないんだね。俺と話すのは退屈? 君みたいな可愛い子、タイプなんだけどな」  急に甘い声で顔を近づけられ、訓志の本能が警報を鳴らし始めた時。  横から、訓志を(さら)うように抱き寄せたのは勇樹だった。 「この子、可愛いだろ? でも、ごめんね。彼、俺と結婚してるんだ。まだ日本から来たばかりだから、うまく説明できなかったのかもしれないけど」  勇樹は不自然なくらい愛想の良い笑顔を浮かべている。まるで、お面でも張り付けたようだ。 (勇樹のこんな表情、見たことない)  今日一番訓志が恐ろしいと思ったのは、アメリカ人ゲイから向けられた舌舐めずりするような目線でも、勇樹に横恋慕するジェイソンからの嫌味でも、自称ドラえもん好きの男の手の早さでもない。  これまで訓志に見せたことのないほどの、勇樹の強い怒りだった。  表面のフレンドリーさが全く意味をなさないほど明らかに滲み出ている怒りに、男は唖然としている。訓志も慌てて謝った。 「ちょうど今、言おうと思ったところだったの。僕、この人と結婚してるから。」  無言で訓志の手を強く握り、勇樹は大股にロビーを横切っていく。方向から言って、彼が帰る気なのは明らかだ。いつもの彼なら、絶対に「帰ろうか?」と声を掛けてくれる。それどころか、殆どの場合「帰る? それとも、もう少し居る?」と訓志の希望を聞いて、尊重してくれるのに。勇樹の後ろ姿を見つめ続けたが、彼は、訓志を見てさえくれない。  知らない男に迫られ、全く怖くなかったと言えば嘘になる。しかし、訓志の呼吸が浅くなり、こめかみが痛くなるほど強く脈を打っているのは、あの男のせいではない。最愛のパートナーである勇樹が、激しく腹を立てていること、その原因の一端は自分にあるのではないか、と感じたからだった。  それでも勇樹は車に着いたら、いつも通り紳士的に、助手席のドアを訓志のために開けてくれた。訓志がおずおずと助手席に腰掛けると、運転席に座った勇樹は、指先で苛々とホイールを叩いた。 「あんまり疑ったり、束縛したくないんだけどさ。なんで、見ず知らずの男に、あんなに馴れ馴れしくさせたの?  ……見ず知らずの男で、良いんだよね?」  彼が怒りを押し殺そうとしていることは、こめかみや喉元の筋が時折不規則に動いていることと、いつもよりも低く抑えた声で分かった。 「見ず知らずの男だよ。今日あの場で初めて会ったばかりだし、名前すら知らない」  訓志はキッパリと答える。ここでオロオロしたら、余計怪しいだけだ。 「じゃ、なんで、今にもキスしそうな距離にいたわけ?」  ようやく、彼が訓志と目線を合わせた。非難するかのように強い眼差しで、睨むように見られたが、訓志は怯まず、静かに言葉を続ける。 「勇樹。あの男、どういう手合いだと思った?」 「……ずいぶん厚かましいヤツだと思ったよ。初対面で、しかも、訓志には連れの男がいるって分かってるのに、堂々と口説こうとするんだもんな」 「その通りだよ。あいつ、顔に似合わず、相当な手練れだよ。だから、無理に振り切ると却って危ないと思って、様子見てたんだ。こっちが結婚してるとか言う隙すら与えないで、距離詰めてきた。これはヤバいと思って、蹴り飛ばしてでも逃げようと」 「あの男が、どういうヤツかは、どうでも良いよ!!」  勇樹は声を荒げ、訓志の言い訳を途中で遮った。彼の声色は、悲痛さすら帯びている。ホイールを叩きつけそうに振り上げられた握り拳は下ろされたが、感情を必死にコントロールしようとしているようだ。彼の指先は、感情の揺れを表すかのように震えている。 「……なぜ、訓志が、そんな隙を見せたのかが分からない。  自分でも気付いてたと思うけど、今日の会場で、訓志が一番人目を引いてたよ。何て言われてたか知ってる? 『かわい子ちゃん』とか『めっちゃ色っぽい』とか『一度お相手してほしい』とか。俺の口からは言いたくもない、下品な言葉もいっぱいあった。  ミート・マーケットに仔羊を連れてきたようなもんだって、俺、すごく後悔した」  ありありと落胆を目に浮かべ、少し眉を寄せ、勇樹の表情は苦しげですらある。何とか彼の苦痛を和らげたい、誤解を解きたい。そっと彼の腕に触れると、勇樹は一瞬身体を硬くした。 (……拒絶された)  こんなことは、これまで一度もなかったのに。ショックで、訓志の動悸は激しくなった。しかし、言い訳だと思われても、自分の誠意は伝えたい。 「ゲイが大勢集まる場でチヤホヤされるのは、アメリカほどじゃないけど、日本でも同じだったんだ、実は。言うと勇樹が心配すると思って、黙ってたけど。だから、自分で状況をコントロールできると思ってたんだ」  またしても訓志の話を遮るように、途中で勇樹が深い溜め息をついた。 「できてないじゃん、コントロールなんて! あのタイミングで俺が割り込まなかったら、絶対キスの一つくらいされてたろ。  確かに訓志は、日本でもモテたと思う。だけど、アメリカでの流儀とかノリって、全然違うんだよ……。結婚したから必要ないだろうと思って、教えてないけど」  頭ごなしに否定され、訓志のささやかなプライドは傷ついた。 「僕だって、自分の身ぐらい守れるよ? あの場所なら、大声出せば聞こえるって、ちゃんと分かってたし!」  ムッとして訓志が言い返すと、勇樹は左右に首を振り、軽く鼻で笑った。 「キスされて、腕でも掴まれてみろ。声なんか出せやしない。多少身じろぎしたって、周りは『ああ、イチャついてる』としか思わないよ。あの体格の男に、腕力で勝てると思うか? しかも、ホントに性質悪い(やから)は、キスしながら口移しで、強い酒に混ぜた睡眠薬飲ませて来たりするんだ。日本人は、体格が華奢でおとなしいし、レイプドラッグの知識もないから、良いカモにされてる。そんなこと、知らなかっただろ? ここは、日本みたいに平和な国じゃないんだ。  今までは、悪い男を寄せ付けないように、俺が目を光らせてたけど」  訓志は押し黙った。声が出ない。まるで喉の奥に、無理やり熱い大きな食べ物を押し込まれたようだ。  確かに、勇樹の言うことは正しいのだろう。しかし、彼が訓志の意見を一切認めてくれなかったことに、苛立ちと反撥を覚えた。目と鼻の奥が痛むのは、涙が出そうなのだろうが、悲しいのか悔しいのかすら、よく分からない。頭の中には、言いたいことが色々あったが、様々な感情が胸の中で渦を巻いている今の訓志に、自分の感情を適切に表現する言葉はなかった。

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