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03ー1
ガシャン、とガラスが割れる音が虚しく部屋に響き渡る。
そばに支えていたメイドは恐怖に震え上がり身体を小刻みに震わせていた。
「…ねえヴァイス」
長く艶のあるオレンジの髪を緩く結えたハイエナの獣人であるトレイルが丸みを帯びた耳を垂れさせながら声を出した途端に再びガラスが割れる音が響いた。
「……話しかけるな」
低く端的に告げられた言葉には明らかな疲労が滲むがその目は今直ぐにでも誰彼構わず襲いかかりそうなほどに獰猛な光を宿しており、鋭い爪は彼がいつも腰掛けていたソファを酷い程に抉っていた。
「…殿下がそう望まれたんでしょう」
「……何の用だ、リドリウス」
獣が切り裂いたような傷痕の残る扉から現れた灰色の男にヴァイスの機嫌は悪化の一途を辿る。剥き出しになった爪でソファに新たな傷跡を付けたその数秒後に外から楽しげな笑い声が聞こえた。
ぴくっと耳が動き、吸い寄せられるように窓の外を見たヴァイスは堪えきれないという様に雄叫びを上げた。
叫びというよりも獣の咆哮の似たそれは、外にも響いたがそれで何かが変わる事はない。
「落ち着きなさい、殿下」
「黙れ!!!お前に何がわかる、お前に!」
「…番を失う辛さは、この身を持って知っております」
今まで見た事のない主人の姿に恐れ様子を伺う者達とは対照的に、狼の獣人はどこまでも穏やかな声で返す。
その言葉にはっと息を呑んだのはヴァイスだった。
「…殿下、まだ間に合う。あなたはまだやり直せる筈です」
キッカケすら掴めず、気が付いた時には痕跡が掴めぬ程存在すら疑う程完璧に自らの番が居なくなっていたあの絶望感を味あわせたくはないのだと、
「私達のようにはなるな」
は、と息が漏れた。
どさっとぼろぼろになったソファに腰を下ろして、膝に肘を置き組んだ両手の上に額を乗せてヴァイスは何度も震える息を吐き出した。
「……どうすればいい…」
それから少しして絞り出すように告げられた言葉に灰色の狼は無意識のうちに止めていた息を吐き出して、その様子を固唾を飲んで見守っていた従者は安堵に胸を撫で下ろした。
ここに居る者達は、ヴァイスという人物をよく知っていた。
何故彼がこんな行動を取ったのかも、取らざるを得なかったのかも、理解している人たちだった。
「…俺は、アイツをあんなにも傷付けた。今更どうすればいい」
「、ボクがきっかけを作る」
聞いたことがないほどか細い声で呟く主人の姿に見ていられないとばかりに手をあげたトレイルを見たリドリウスは僅かに眉を寄せて見せた。
それに気がついてかトレイルは自重気味に笑って、それでも、と前を見る。
「…わかってるよ。ボクが行ったら火に油を注いじゃうかもしんない。…けど嫌がるソロ君を独断で連れてきたのはボクだから、責任取らなきゃね」
「……そうか」
いつでも、どんな状況下にあっても光を失うことはしなかった目から全てが抜け落ちる瞬間を初めて見た。あの子はあんな顔をする子だったんだと、あの時場違いにも思ってしまった。
あの行動がどれだけ残酷なものだったのか考える事もしなかった。
こんな事になるなんて、思っても見なかったんだ。
運命だから何があっても大丈夫、そんなはずはなかったんだ。
「…呪いだって言ってた。運命の番なんて呪いだって」
お互いの心がどれだけぼろぼろでも、それでも惹き合う姿を美しいだなんて思えたのはあれが本の内容だったからだ。
現実は、ただ辛いだけだった。
確かに、これは呪いだ。
抗うことも、逃げることもできない呪いだ。
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