36 / 155
03ー4
パキ、と割れたガラスを踏む音がやけに大きく響いた。
「ふふ、逃げられたのかい?」
次いでその場の空気にあまりに似つかわしくない軽やかな声で告げられた言葉に未だに粉々に砕けた窓枠を掌から血が出ることも厭わずに握りしめていた男が視線を向ける。
良く紫水晶のようだと言われる瞳は暗く濁りその目に様々な感情を映し出していた。
「どうせトレイルだろう?ダメだよ、あの子はああ見えてすごく臆病で繊細だ。それなのに今一番会いたくない君に話しかけられたりなんかしたら逃げ出すに決まっているよ」
「わかった風な口をきくな」
鋭く返された言葉にアルヴァロは面白そうに目を細めて緩く首を傾げて見せた。
「おかしいな。少なくともヴァイスよりもあの子のことを知っているよ?ソロの好きなものや嫌いなもの、落ち着く匂いや場所、――嗚呼、あの子は抱き締められるのがとても好きだよ。そうするとあの尻尾をふわふわと揺らすんだ。可愛いだろう?」
「…黙れ」
「あとは、そうだね。キスも好きなんじゃないかな?急にすると顔を真っ赤にして怒るんだ。でもちゃんとお伺いを立てると仕方ないって言ってキスさせてくれる。それに」
「――黙れと、そう言ったんだ。聞こえなかったのか」
まさに一触即発。触れたら切れるほどの鋭さを放つヴァイスの様子にニイッと、鋭い牙を覗かせるようにしてアルヴァロは笑みを深めた。
「さっさと番にしてしまえば良かったのに」
はっきりとした悪意を持って紡がれた言葉にヴァイスの顔から表情が抜け落ちる。
次の瞬間には彼は地面を蹴っていた。
「ヴァイス、ダメだ!!」
αの威圧に押されて怯んでいたトレイルが獣のように飛び出したヴァイスを見て叫ぶ。
けれど怒りで目の前が赤く染まった彼にその声は届くことはなく、振り上げられた拳はそのままアルヴァロの頬へと叩き込まれた。
つんざくようなメイドの悲鳴が廊下に響き渡り、バランスを崩したアルヴァロを更に殴ろうとヴァイスが胸ぐらを掴み上げる。間髪入れずに一発、二発とアルヴァロの顔に拳を向ける。けれどどれだけ殴ろうと彼の顔から笑みは消えず、それがヴァイスの怒りを助長する。
「何がおかしい!!」
「全てだよ」
口内に溜まった血を吐き出し、だらりと脱力してガラスの破片が散らばる床に腕を投げ出す。
すん、と鼻を鳴らすと自分のものとは違う香りがするのにまた笑みを深めた。
「…嗚呼、ソロは怪我をしたのか、可哀想に。お前があんな猿芝居を打たなかったら、あの子を受け入れていたら、こんな結末にはならなかったのになぁ」
「………お前が、それを言うのか…!」
今一度振りかざした腕は衛兵によって止められ、ヴァイスはアルヴァロから離される。
「俺から大事なものを全て奪ったお前が!!!」
「……奪われる隙を見せたお前たちに責任がないとでも言いたいの?」
衛兵によって床から起こされたアルヴァロが放つ一言がヴァイスの胸に突き刺さった。
「お前は本当に隠し事が下手だね」
大事なものは隠しておけと、あれほど言ったのに。
どこまでも楽しげに笑ったままアルヴァロは何人もの衛兵を付き従えて歩き出す。
「アルヴァロ様、ソロ様の捜索はどこまで範囲を広げましょうか?」
「いらない」
「…は、」
「聞こえなかった?いらないって言ったんだよ。捜索は不要。それよりも明日からの公務について大臣たちに聞かなきゃならないことがあってね、」
わざと聞こえるように話す姿にヴァイスの目の前が暗くなっていく。怒りや絶望で体の震えが抑えられず彼は衛兵に押さえつけられたまま喉が切れる程に叫んだ。
ともだちにシェアしよう!