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06ー2
手を伸ばして、ようやく服が掴める様になるまでに何日掛かっただろう。
まず触れられる距離にいることがあまりにも奇跡すぎる。だが呼吸は荒いし冷や汗も止まらないのだから笑ってしまう。
「…顔色が悪い今日は」
「やめろとか言うなよ。お前が俺の行動に水差すな」
睨みながら言えば俺よりも死にそうな顔をした男がグッと言葉に詰まってそれ以上俺に何かを言ってくる事はなかった。
そのことに頷くと今度はもう一歩前に出てみる。
足が鉛のように重たくて、中々進もうとしないことに苛立ち舌打ちしそうになるのをグッと堪えてはを食い縛り重いものを持ち上げる要領で思い切り足を前に出すとそうして漸く一歩前に進むことが出来た。
「っあ"ーーー!ほら見ろ、今日はすげえ進歩した!あ、だからお前から手伸ばすなって言ってんだろ」
「……」
「舌打ちすんな。お前は待てしてたらいいんだよ」
頼りなくふらつく俺の体を支えようとしてくれているのだろう伸ばされた腕を見て思わず棘のある声で制すれば男は眉を寄せ、明らかな舌打ちをして渋々と言った様子で腕を下げる。そんな態度に苛つく事も少なくなったのは特訓と称したコイツとの時間が増えている事他ならない。
「…俺は犬じゃねえ」
「どっちかと言えば猫だよな、虎だし」
会話をすることにもだいぶ慣れてきた。
以前のような息苦しさを感じる事はなくなり、時折突発的に言葉が出なくなる事もあるがそれでも普通と呼べるくらいにはコイツとの距離は少しずつではあるが縮まってきていた。
「…俺を猫だなんて言うのはお前くらいだぞ」
「アルには獣って言われてたな」
「………前から思っていたんだが」
だがあまり長い時間はまだ無理だと判断して離れる。
近づくのはあんなに大変なのに離れるのは簡単で、すぐにギリギリ触れられない距離にまで体を下げると柔らかい草の飢えに体を投げ出した。
背中に土や小石が当たるがそれでも自然の匂いが近づいたことに体から力が抜けていくのを感じる。鼻をひくつかせ湿り気と実りの豊かな季節の香りを吸い込んでいた時にかけられた言葉に目線を向けるとそこには難しい顔をしたアイツがいた。
「なんだよ」
「…お前は兄上が怖くないのか」
「ぁー、怖いけど怖くねえ時も知ってるからな、微妙」
「怖くない時…?」
「俺を慰めてくれてた時」
間髪入れずに答えると途端にアイツの顔が歪む。
傷ついている事は手に取るように分かるが、これも俺からしたら一種の意趣返しであり一つの選択だった。
「俺をペットかなんかだと思ってたんだろうな。純粋に可愛がられてた。ああ、これが可愛がるって事なんだろうなって納得したくらいには可愛がられたけど、アイツからは感情の匂いも音もしなかったから不気味ではあった」
隠し事はしない、それが俺が選んだ小さな選択の一つ。
その選択が吉と出るか凶と出るかは未だ未知数だが、少なくともそうした事で俺もアイツも変わってきていた。
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