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第2話

 シャワーを浴びに行ったミモリから彼の一切を頼まれ、ミカモトは脇にその身体を抱え、浴場へ移動した。意識を失ったのはほんのわずかな間で、目を覚ました瞬間彼は噛み付かんばかりに暴れた。その瞳は憎悪に燃えていた。 「殺せっ、殺せよ…ッ!」  取り乱した様子までラグナによく似ていた。手足を拘束する鎖が煩わしく鳴った。恋人にしていたように力強く抱擁する。それは締め殺す仕草にも似ていた。胸の膨らみに青年は顔を押し付けられ、力に迷いが生じている。その仕草まで時折ラグナが見せる動揺と同じだった。ミカモトは熱いシャワーでタオルを濡らし、その上に恋人と瓜二つの青年を四つ這いにさせた。白い肌が赤く染まっていく。スーツが濡れることも気にせずミカモトはシャワーの温度を調節した。そして適温になると多量の白汁を垂れ流す嬲られたばかりの窄まりへシャワーを当てる。 「…っく、ぅ…」  青年は泣いているらしかった。タイルに湯が打たれる音で抑え込んだ嗚咽はほとんど聞こえない。壁や床を殴り皮が捲れ木のトゲが刺さったままの手で彼の色付いた蕾に触れた。様子を見ながら指を挿入する。その時にもまた白濁粘液が溢れた。 「指、挿れ……る…っな、ぁ」  内股を伝う粘りをシャワーで落とす。指を締め付けるられながら奥へ進めていく。掻き出しているうちに青年は少しずつ膝を閉じていった。指を呑んだ(しべ)の下にある双珠が張り詰めていく。シャワーの温度を少し下げてから指で輪状の筋肉を拡げ、内部を洗浄した。 「っ、くぅ……っ!」  青年は腰をくねらせる。微温い湯を飲まされたそこから薄らと濁った湯が流れた。またひくりとそこが渇を覚えたように収縮する。湯の温度を戻す。冷えたらしい肩にシャワーを当てた。 「もう、放せ……よ、放せ…」  手枷だけ外した。青年はまた暴れ、ミカモトの水を吸ったシャツの胸ぐらを掴んだ。 「殺してやる…!」  ミカモトは抵抗することもなく彼の成すがままに揺さぶられ、殴られる。ミモリの息子から受けた傷に上書きされたが、それよりも威力は格段に落ちていた。タイルに倒れたがむくりと立ち上がると、ラグナによく似た目に怯えを宿した。しかし彼はそれを隠そうとしている様子があった。ラグナにも弱さを見せられないようなところがあった。ミカモトは恋人とまったく同じ表情をする青年の前に膝を着いた。病人を連れ帰った日もこういうことがあった。触るたびに叩かれ、引っ掻かれたものだった。懐かしい気分になってミカモトは両手を広げた。鎖で繋がれた足がタイルと水を蹴る。 「なんなんだ……アンタ…」  青年の声は掠れた。落ち着いたような声音も話し方まで似ているとなるともうミカモトは負けてしまう。 「ラグナ」  呼ぶと青年は明らかな反応を示した。おそるおそるミカモトの腕に触れる。躊躇っていたくせ、強い力だった。 「オレは、レグナ-蓮紅-」  言い聞かせるように彼は名乗った。ミカモトの目を真正面から捉え、瞳孔の奥まで覗かれてしまいそうだった。頬に触れてみる。レグナと名乗った青年は嫌がらなかった。恋人かも知れない期待は膨らみきり、ミカモトは彼を抱き寄せた。腕の中に肉感がある。重みがある。ミカモトは暫く恋人の亡霊を離せなかった。目を硬く閉じて人の肌の感触に浸った。シャワーの水滴が無数に付いた髪を梳いた。病人と暮らしていた時も毎日この手で髪を洗い乾かした。恋人になってからは櫛を入れるようになった。 「アンタ、名前は…?」 「ミカモト。ヲミ-遠廻-」  レグナに問われるままミカモトは答えた。 「ヲミ…」  彼は復唱する。寒気に似た、しかし意味合いはまったく違う閃きのようなものが彼女の中に迸る。レグナの瞳に囚われる。死んでいった恋人と何も変わらない静かな輝きから一度だけ目蓋を伏せた。額に頭突きをするように額を合わせる。 ◇  何もかもが気に入らなかった。ミモリ・ドモン・シェンラン-深藍-はデスクを殴った。骨に響きミカモトという半端者に殴られた傷が痛む。息の根を止めた男がまた現れた。父親であるミモリ・ジモン-寺門-・ケンゾ-権三-が営む娼館「彩虹花(ツァィホンフゥア) 」のことを嗅ぎ回っている者がいるという話は聞いていた。どうせは密会し、あわよくば連れ去りたいという考えの不埒な輩だろうと高を括っていた。もしくは叶わない恋に身を焦がしているか、或いはミモリ・ケンゾに恨みを持つ者だ。しかし自分がいる限り、愛する父に近付くことなどできない。暗殺者を捕まえることはあまりにも簡単だった。父本人の耳には入っていないだけで何人もの害虫を駆除してきた。ただあの暗殺者だけは違った。死んだはずの男がそこにいた。父の悲鳴を聞いてドモンはすぐさま害虫を捕獲した。その正体を目にした時、強欲なくせ飽き性な父の執着心は燃え上がった。それだけでなく、従順な操り人形の振りをして自分を裏切っていたミカモトさえも欲しがるのだった。ドモンは愚かで浅ましい義理の父が堪らなく愛しかったが、あまりにもこの親は義息子を蔑ろにした。ドモンは頭を抱え、綺麗に整えられた髪を掻き乱す。すると彼の纏っていた洗練された色気は気怠げなものへと変わっていくが本人は気付かず、また彼が求めた義父にも届かずにいた。父の白桃を思わせる大きく(まろ)やかな尻を見ることしか出来ない。甘い果汁を染み出しそうなその尻肉の狭間に何度己の猛りを突き入れたかったか、そしてその劣情を押し殺すことに苦しんだのか、丸々と肥った豊満な肉体の持ち主は知る(よし)もない。贅肉に埋もれた陰部ばかりを重用して、あの俗人はまるきりその身体に秘められた魅力に気付いていない。ドモンは焦燥に駆られながらも自らの手で昂りを慰めた。デスクに腕を付き、そこに顔を埋め、手淫に耽ける。揺れる太々しい桃尻を想像した。そこに挿れたい。厚い肉に腰を打ち付けてみたい。淫欲に忠実になればなるほど快感が増していった。垂れた胸も背後から貫きながら揉みしだきたかった。だらしなく生えた胸毛を撫で回してみたい。でっぷりと脂肪を蓄えた腹を締め上げて思い切り突き上げてみたい。留まることを知らない欲がさらにドモンの官能を追い立てる。初めて父の胸の双丘とそこに繁茂する(くさむら)を目にした時から、或いはそこに色付く二点の毒々しい蛇苺を認めた時からドモンの聡明な頭には強烈な印象が捻じ込まれた。彼の生まれ持った犀利(さいり)な感性がさらに卑猥で淫靡な妄想を助長する。毎晩ベッドに呼ばれる生きた人形のように父の腕に抱かれたことはない。しかし何度もそこに自身を重ねた。黒い野原を携えた腕によって寄せられ、(こぼ)れんばかりに膨らむ胸の谷間に埋まる自分。そこで呼吸が出来なくなる前に、自分の身でないことに激しく嫉妬し息が詰まる。気が狂いそうだった。父が気に入った人形に殺意を覚え、実際殺害しようと画策したこともある。父の命までをも奪い、傍に置いておいておきたかった。他の誰も見ないように。 「…っはぁ、っ……、」  質の良いラグに白濁が飛び散る。数度に分けて断続的に噴き出し、ドモンはまだ先端部まで扱き、最後まで搾り取った。飛ばずに滴る液が指に絡む。倦怠感に襲われそのままデスクに突っ伏した。この机面の奥には繁華街だけでなくその周辺の居住区やさらにその周りを囲うような工場地帯の夜景が広がっている。よく磨かれたガラス張りには義父に淫情を抱いて叶わず、艶羨(えんせん)(そね)みに身を焦がす美しい男の擦り切れた姿が薄らと映っていた。今夜もまた義父は明朝まで気に入りの人形を抱く。許しがたい。殺してやりたい。特に父の愛欲を一身に受けていた蘭紅(らぐな)によく似た暗殺者は。父を殺して一生の私物(もの)にしようとしていた。烈愛だけでなく命愛(いのち)までも奪おうというのだ。ドモンは御せないほどの怒りによって打ちのめされ、かろうじて動く指でチャイムを鳴らした。部屋の扉がノックされる。入ってきたのは、黒と白を基調としたエプロンドレスの召使いで数年前ならばドモンの義父好みの端麗ながらも繊細さと可憐さがあったと思われる男だった。今は黒ずんだ傷痕が顔にある。それでも彼は精悍さを帯び、整った顔立ちをしていた。ラグナが来るまではドモンの父の寵愛を受けていた。発育とラグナの登場により彼は床夫に戻ることもなく、店の用心棒として雇っている不成(ならず)者たちの慰みものとなっていた。深く根差し、絡まり、晴れない恨みによってドモンはこの情欲厠(かわや)同然の男を拾い、痣だらけの身体を嘲笑ってアオ-蒼青-と名付け戸籍ナンバーを与えて傍に置くことにした。その皮膚と粘膜に淫父の手垢と子種が擦り込まれている。それが許せなかった。虐待するためだけにドモンはアオを奴隷にした。ラグに散った精を舐めとらせ、掃除させる。手に付いた汚れもアルコールティッシュで拭い取らせた。綺麗にしろと命じればデスクの下に潜り、射精して間もない主の淫部を口で清める。義父のように太ればせめて代わりにできたものだが、いくら高カロリーなものを食べさせても吐くばかりでいつまで経っても華奢だった。そのためにドモンは丸々と太った娼婦を買っていた。しかし(くつわ)を付けても漏れる声は男女の差があった。思っているよりも女の肉は柔らかい。妥協による発散も許されなかった。この奴隷が肥満体にならないのがすべて悪い。顔を手の甲で引っ叩く。濡れた目がドモンを見上げた。誘惑するような眉根は同情を乞うようで吐気がする。 「父上のこともそうやって(たぶら)かしたのか」  返事と共に腰を突き上げる。喉奥を刺され肉奴隷は嘔吐(えづ)いた。 「クズが」  アオは主人の残滓を舐め取り終えると恭しい態度で去っていく。それから彼はワインを運んできた。夜景を見下ろしながらワインを飲んでいる時間が最も無心になれた。アオは普段どおりにコーナーデスクの脇に乗り、エプロンドレスの裾を捲り上げ穴自慰をはじめた。ドモンは酷薄な笑みを浮かべ、夜景と酒を愉しむ。愛しの義父の艶欲によって拡がり、慰みものとして勤めたアオの後孔は無花果(イチジク)のように熟れ、前はまだ自認もないほどの男児のように退化していた。日常ならばそれが愉快で仕方なかった。愛慕が留まることを知らない義父の手垢まみれの残滓の塊の恥知らずな姿に溜飲を下げていた。しかし今日は違った。一向に気が治まらない。 「やめろ。降りて腰を上げろ」  アオの快感に火照った顔へ落胆の陰がかかった。彼は命令に従いデスクから降りるとそこへ手を付いて腰を上げた。 「薄汚い床夫(オス)が。消毒してやる」  ラグナという忌々しい男にもこうしてやりたかった。ドモンはアオの指で慣らされた淫穴を無理矢理指で拡げワインを注ぐ。 「ここで飲め。父の種汁(ジュース)もここで飲んだのだろう?俺のワインも飲めるな?」  葡萄酒を垂らしていく。アオは本能的な抵抗といった具合に左右に緩く腰を振った。 「ぁひぃ!」  アオの背中がラグナとそれにそっくりな暗殺者と重なった。父の寵愛を得、快感を貪る恥知らずな肉穴にドモンはまた嫉妬に取り憑かれた。ワインのボトルを掴み、細長い瓶口をまだ締まりのある蕊門に食ませるとそのまま肉壺(グラス)へ逆さまにした。 「ぁアっ……あっぁあ…っ!」 「苦しめラグナ!呆気なく死んでさぞ楽園天国だろうな。貴様には地獄が相似つかわしい…!」 「あっ!あっああっ…!」  アオの秘喉は嚥下するように蠢いた。わずかな隙間から赤黒い液体が溢れ、腿を伝い、毛足の長いラグは徐々に色を変えていく。 「今度はこの手で殺してやる、ラグナ…」  義父に愛されていることもドモンの中では死罪に値したが、肉奴隷の分際で義父を裏切ることもまた許されることではなかった。性欲の苗床になる前に、そしてこの手で虐げることもできずにあの男は義父に執心を残して死んだ。 「あっあ…ぁあ…ぁ!」  瓶を上下に動かす。激しい悲鳴が上がった。酒壺から品のない音を立てて葡萄酒が流れ落ちた。 「ああアアぁっ!」 「ラグナ!往ね!ラグナ…!」  そのまま瓶を奥まで押した。アオの雄膣は皺を伸ばし、細い口に続く瓶の胴体を頬張った。 「あっがっあっああっ!」  無理矢理に暴飲暴食をさせてもすべて戻すアオの薄い腹を押す。彼は病的な震えを起こした。家畜のような義父の射精量に数度耐え下腹部を膨らませていたはずだ。ドモンは自分が、あの横柄で憫然(びんぜん)たる気質の父を孕ませてみたかった。白桃と変わらない尻、白チーズでできた腹、黒草木萌ゆる約束の白浜に等しい胸。 「ラグナ!」  怒鳴り付けるとアオは痙攣を起こしながらデスクから手を滑らせ、力無くラグへ崩れ落ちた。吐物が唇から垂れ、葡萄酒が後穴から漏れ出る。退化した小さな茎は透明な糸を引いていた。手から離れたワインボトルが鈍い音を立てて転がった。ドモンはグラスの中身を飲み干して、その杯を壁へ投げ付ける。チャイムを3回鳴らすと正式な使用人がやって来た。それから少しして露出の激しい女も現れる。細く長い脚と丸みのある腰、括れた腰と豊かな胸、小さな顔には黒曜石をそのまま嵌め瞳がと小振りな鼻、色付いた唇がある。墨を流したような黒く長い髪が白い肌に映えている。ドモンは彼女を一瞥すると担架に乗せられていくアオを見下ろしながら嘆息する。 「またアオをいじめたのね。どうしたら貴方の癇癪は治まるのかしら?」  女はフォンスゥ-楓樹-といった。ドモンの婚約者だった。互いの意思による婚約ではなかったが、両者とも結婚に対する頓着が薄いため婚約者は姉弟や友人のような関係へ変貌している。 「いじめてなどいない…!当然の報いだ。当然の…父上を裏切った…」 「ちょっと。誰の話をしているの?」  婚約者はドモンの手を取って気の強い眼差しを向けた。ドモンは目を逸らす。頭の中が混乱した。自分でも誰の話をしているのか分からなかった。父上が、ラグナが、あのゴミクズが。言い訳めいた言葉を並べ、彼女はより訝しむ。この話題から逃れたくなった。 「ピアノを弾いてください…なんでもいい。ピアノが聴きたいのです」  顔を背けながらドモンは吃りながら喋った。 「ダメよ。わたしはアオを看るから。貴方は少し頭を冷やすことね」  彼女はドモンを忌避するように手を離し、身を引いた。婚約者はアオを様々な意味で可愛がっている。時には足置きや椅子にしたり、時には大切な人形のようにしたり、それでいてドモンが奴隷に対し激昂した際には必ずアオの肩を持った。今日もだった。彼女もまた父から実娘のように愛されている。遠出をすれば服やアクセサリーを贈ったり、記念日には派手な催し物を開く。 「落ち着いたなら貴方もアオのところに来なさい。分別のない人間でないでしょう?」  声を荒げたり、凄んだりはしなかったがそこには叱咤が含まれていた。長い髪を揺らして婚約者はドモンの部屋から出て行った。使用人たちはまだ片付けをしていたが彼等にも退室を迫った。1人になりたかった。燻った感情は刺激を求め、ドモンはデスクへ頭を打ち付けた。ラグナがすべて悪い。目の前に火花が散った瞬間そう結論が出た。ピアノの音が聴こえた。耳障りだった。壁に付いたオーディオからジャズを流す。殺意は紛れなかった。攻撃衝動は対象をなくし、自分へ向いた。部屋に並べられた酒を開けて夜景の色が褪せていく。  アオは婚約者の軽量掛布団(ダウンケット)を掛けられカウチソファーに寝かされていた。医者は帰ったが彼は点滴に繋がれ眠っている。 「起きろクズ」  頬を手の甲で(はた)く。目元が弱く収斂し、よく濡れた目が開いた。義父が好む傾向にあるこの顔をドモンも持っているくせ、目の前にあると怒りが湧いた。睫毛が長く色が白い、鼻梁の通った唇の薄い、少し冷淡な印象のある顔立ちを父は好む。そこに可憐さと怜悧さがあれば尚のことだった。どれも多少の差はあれど見分けがつかなった。ただラグナはその中でも圧倒的な華があった。 「土門様…」  この傷で黒ずんだ顔をいっそのことラグナにしてしまおうかと何度思ったことだろう。殺してしまうかも知れない。 「いいご身分だな」  フォンスゥの選んだ淡いピンクの影を落とすシーツに奴隷は埋もれていた。嫌味を言えば彼は自身の状況に気付いたようだった。 「貴様はゴミだ、ラグナ」 「黙りなさい、酔っ払い。気にしたらダメよ、アオ。お前は立派な奴隷なんだから。貴方も頻繁におちんちんをしゃぶらせてるくせに偉そうね」  婚約者はバスローブに身を包み、髪もタオルで巻いていた。今日はこのペットを可愛がる日らしい。ソファーに座ることも忘れ床に膝を着いているドモンを、彼女は冷ややかに笑って見下ろした。 「水を持って来るから飲むのよ、いい?酔っ払いさん」  フォンスゥが席を離れ、それをいいことにドモンはまたアオの頬を叩いた。 「勘違いするな、ゴミ。お前はゴミだ。ゴミクズだ。どこに隠れようが必ずぶち殺してやるからな。ラグナ…覚悟しろ」  長いこと矜恃を打ち砕かれる日々を過ごし自尊心すらも封じ込めていたアオの瞳に水膜が張った。 「わたくしはアオでございます…」  蚊の鳴くような声と掠れた喉で彼は珍しく口答えした。ドモンは黒ずみのある頬を打つ。 「貴様はゴミだ、ラグナ!ラグナ!ラグナ!」  ドモンは叫んだ。溜め息が奥から聞こえた。ほとんど使うことないインテリアと化したカウンターキッチンでも水は浄水器を通して澄んでいる。 「落ち着きなさいと言ったわね。どうしたの?おかしいわ、貴方」  ドモンは冷たい水を差し出され、それを呷った。冷静な態度を向けられると彼自身もどうしたいのか分からなくなる。 「お前の顔面をラグナにしてやる!」  婚約者は眉を顰める。ドモンはアオの耳を引っ張った。 「やめなさい。さっきから誰の話をしているの?ラグナ…?アオと何の関係があるというの?」 「会わせて差し上げます。会わせて差し上げますよ。この顔に術用刃物(スカルペル)を入れて」  ドモンは奴隷の耳を引っ張りカウチソファーから引き摺り下ろそうとする。 「嫌でございます…!嫌でございます…!」  今まで何をされても服従していたアオは泣きそうな声を出して訴えた。フォンスゥは泣き出してしまいそうなアオを一瞥してからまた様子のおかしい婚約相手の奇行に狼狽えた。 「ゴミクズが!貴様はこのために俺の傍に居るんだ!」 「やめなさい。それなら貧民窟(スラム)の廃人でも連れて来ることね。わたしはその顔、気に入っているの」  蝿を叩くように彼女はアオの耳を摘まむドモンの手を打ち払う。奴隷は片耳を赤くし、声を殺して涙を流しはじめた。亜麻色に染められ色の抜けた灰色の髪をフォンスゥの長い指があやす。雷に怯える犬猫を庇うような仕草だった。 「わたしたちのペットでしょう?だってもうわたし、この奴隷(いぬ)を気に入っているんですもの。こんな優秀なバター犬は居ないわ」 「そんなペットは要りません。差し上げます」  アオはドモンを潤んだ目で見つめる。機嫌の非常に悪い飼主は忠犬へ背を向けた。 「機嫌が悪いのね」 「土門様…わたくしは、」 「ゴミの分際で口を利くな。ラグナでないなら貴様に用はない」  ワインの臭気が漂っている自室に籠り、椅子に座って目を瞑った。まだオーディオ機器は穏やかな音楽を流していた。ガラス張りの向こうは繁華街や歓楽地はより鮮やかな輝きで彩られ、工業地帯は白やオレンジの明かりで落ち着き、居住区はすでに寝静まってぽつぽつと疎らな電気が点いていた。義父の縮れ毛を保管した袋を翳して気分を落ち着ける。醜態を思い返す。そして身体中が痛み始める。アオを泣かせてしまった。婚約者の前で子供じみた真似ばかりした。相変わらず父は浅ましく可愛らしかった。ミカモトに勝てなかった。ラグナの亡霊がいる。早いうちに殺害しなければならない。憤激に燃えるだけの体力がもう残されていなかった。酔いと疲労に意識が呑まれていく。彼の頭が肩へ傾いた。柔らかく軽い毛布がまだ着替えてまいないスーツに掛かった。手触りの良い布に触れて肘掛けに置いた手が動く。奴隷の匂いがした。感覚はあったがまだ目を開くには至らない。しかし何者かが傍にいる。まだ目は覚めない。泥沼のような眠気であるくせ、機敏な彼の体質はその気配を無視できなかった。 「殺すのか、俺を。ラグナ…」  唇が肉感に弾んだ。殺されるのだ。毒を流し込まれて。殺される前に殺しに来たのだ。香典チップは払ったというのに。  開いた唇に2粒の錠剤が入った。そして冷たい水が流れ、反射によって飲み下す。日常の習慣だった。ビタミン剤だ。これを知っているのは1人しかいない。まだ目は開かなかったが身体は自分の意思で動いた。重い腕を上げ、軋むような関節を曲げて脱色と染髪に傷んだ髪を寄せる。毛並みの悪い奴隷は少し温かい。

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