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第4話

◇  ドモンはまだ体調の優れないアオの髪を手慰みに撫でていたが、突然頭にきてその毛先を引っ張った。矜恃を失い怯え切った目は防衛本能のみ残り、わずかな物音で活力に照った。 「起きろ。うちに穀潰しは要らない」  リビングのカウチソファーに横たわるアオは飛び起き、腕に繋がれた管を揺らした。ドモンは脇のソファーに腰掛ける。アオは彼の膝の間に入るとラグに座った。 「あら、帰ってたのね。おかえりなさいまし。帰宅早々、ペットを可愛いがるだなんて殊勝なことだわ」  恭しい手付きでフォンスゥ-楓樹-は婚約者に帰宅の挨拶をし、アオを一瞥した。 「ただいま帰りました。部屋に大きな塵芥(ごみ)が落ちていたものですから、拾わないわけにはいきません」  アオは飼い主たちの会話に構うことなくドモンの性器に口付けた。 「わたしが拾っておくわ。アオ、おいでなさい」  主人の拝芯へ丁寧に唾液を塗り付けていたが、同等かそれ以上の立場にいる主人の婚約者の命令に口を止めた。振り向きかけた奴隷の頭をドモンは押さえて自分に向かせた。 「これは俺のです。もう1匹増えていいのなら、活きの良さそうなのを見繕ってきましょうか」  染めた色が落ち、脱色もしたため褪せた黒髪を鷲掴み口淫を強いる。 「貴方にとってはどれも同じでしょう?貴方が新しいのを見つけて、わたしにそれをくれたらいいのに」 「これはダメです。貴方にこんな汚らわしい下品なものは似合いません。もっと若くて、もっと綺麗で、ここも使えるのが、貴方にはいいんじゃないですか」  ドモンはアオの股座へ爪先を伸ばした。退化した器官を踏む。アオの息遣いが一瞬変わった。それが飼主の気に障った。長い指は怒りを持ち、アオは頭を激しく動かされ、婚約者はそれを見下ろしていた。性行為に慣らされても具合の良くない奴隷は頭を揺さぶられ歯を立ててしまう。フォンスゥも気付いたらしく肩を竦めた。その様をみてドモンは振り翳した手をばつの悪そうに下ろした。 「おいでなさい、アオ。また家を壊されたのじゃ堪らないから」  彼女は呆れを隠さず、声音を低くして自室に行ってしまった。 「行け、バター犬。バター犬はバター犬らしく優しいマスターの魔羅でもしゃぶっていろ」  アオは衣類を正すドモンを見上げたまま動こうとしなかった。もう一度腕を上げる。 「殴るぞ。行け」  奴隷は震えていたがドモンの前に膝を着いたままだった。婚約者の部屋の扉が開き、彼女は奴隷を呼んだ。アオはドモンを恐れながらも見上げたままで、飼主はこの忠犬に折れ自室に引っ込んでしまう。習慣から自室に電気は点けず、ガラスの奥に広がる明朝の風景を眺め、脱殻のようになって椅子に座った。デスクに肘をつき、頭を抱える。父の拒絶が、亡霊に対する執着が、ミカモトへの信頼が、じわりじわりとドモンを苛む。愛しの父が推すため、好きでもない相手と婚約もした。可憐な父が妙な女に騙されぬよう傍に居たかっただけだった。麗しい父が床夫どもに逆襲されないとも限らないから守るつもりでいた。婀娜(あだ)な父にその意図は通じず、想いも伝わらず、却って疑心ばかり植え付けてしまう。とうとう性奴隷の1人に過ぎない他人に遺産を相続させると言う。ドモンにとって遺産のことは二の次三の次、或いは意識すらしていなかった。ただ遺産を相続させるということは欲深く浅ましい父にとっても家族同然と見做(みな)されている。そしてドモンよりも近く、ドモンよりも深いことを意味する。嫉妬に焦がれ、ドモンは息も出来ずに髪を掻き毟った。ラグナは殺さねばならない。何度生まれ変わっても、何度化けて出ようとも。唇が震えた。燃え滾ったり感情により全身に痛みが現れ、強い蹴りの入った頚椎(けいつい)が特に痛んだ。女の身にも勝てない。屈辱に身体中が振動し、デスクも揺れた。父に振り向いて欲しい。ひとりの男として見られたい。ノックの音にもすぐには気付けなかった。使用人と思い込んで入室を許せば、現れたのは病人のようだった寝巻きからエプロンドレスに着替えたアオだった。 「呼んでいない。寝ていろ、クズ」  ドモンは組んだ両手に額を乗せたままわずかに振り向いただけで、再び物思いに沈んだ。室内に奴隷がいるのか否かにも頓着した様子がなかった。ドモンの中でアオは口が利けなくなったか、もしくは生まれついての唖者(あしゃ)と決めてかかっていた。そのために返事も求めなかった。つまりこの奴隷の言語としての発声はまるきりドモンの意識に留まることがなかった。そしてそこにこの奴隷が居ようが居まいが主人にとっては取るに足らないことだった。ドモンは相変わらずそこで長いこと思考を巡らせては半端な肉体を有した女に対する嫉妬に苦しみ、義父への慕情に溺れ、床夫(こと)に墓場から帰ってきた猥霊への殺意に燃えた。それを何度も繰り返しているうちは傷めた筋も強打した肉も軋んだ骨も捻った節々もこの世から消えたような感覚があった。自宅に居る彼は非常に不安定でこれが食欲も倦怠感も睡眠欲も、あらゆる彼に必要な信号を麻痺させるためさらに厄介だった。彼の眼差しは内部で完結し鋭く砥がれていく。やがて悲鳴を上げた肉体がドモンへ弛緩を命じ、彼は背凭れへ身を沈めた。ベッドで寝るのを忘れていることが最近特に多かった。椅子の上で寝て、起きたらシャワー浴び出勤し、場合によっては激しい格闘をして帰宅し、そしてまた物思いに耽り椅子の上で寝る。柔らかな布が掛かる。駄々を捏ね、捻くれた子供のようにドモンはそれを嫌がった。しかし背中と背凭れの狭間に薄手の毛布を食まされる。口の中に錠剤が押し込まれ、冷たい水で腹の奥に流れていく。そのまま少し眠っていた。肩や腰、膝は芯を作ったみたいにぎこちなく、頭は眠気を帯びているくせ曖昧に冴え、眠さと活動意欲で揺らいでいた。不快感ともいえない違和感を背負いドモンは白くなっていく外を数秒、無心でぼんやりと眺めていた。立ち上がると肌触りの良い毛布がラグに落ちた。奴隷に買い与えたよくある市販のもので、値段も貧乏人にはいくらか贅沢ではありながらもこの家の経済能力からすれば粗品ともいえた。面倒なことにまた奴隷の部屋に投げ付けて返さなければならない。眉間を揉みながら毛布を掴みリビングへ向かった。まだ婚約者と奴隷は寝ているだろう。フォンスゥ・サエグサ-三枝-は顔立ちだけはどうにか美しいバター犬をよく気に入っていた。吠えもせず、艶やかな毛並みも持たず、愛想も芸もなく、肌は黒ずみ古傷だらけの犬を。彼女の気分次第では抱き枕や湯たんぽにされているのだった。しかしドモンからみてあの婚約者は、彼と接する時こそ口調や仕草は一貫して丁寧だが、アオを気に入りの着せ替え人形や長年連れ添った愛玩動物の如く可愛がっていたかと思えば突然何かしらのスイッチが切り替わったように怒りと嫌悪を露わにして追放を(けしか)けたり悪辣なことを言う苛烈なところがあった。  ドモンはまず奴隷の部屋のドアを開けた。縦に細長くカーブしまるであらゆる部屋から追い込まれかろうじてガラス張りの部屋に張り付いているような間取りのドモンの自室とは違い、狭いが正方形の部屋でレースカーテンの垂れた嵌め殺しの窓とよくある面白みのないベッドが置かれ、天井にはシーリングファンが回っていた。簡易テーブルやペン立てもあり、何冊かフォンスゥが与えた本もある。私物はほぼなかった。アオはベッドの上に膝を抱えて踞るように寝ていた。ベッドに身を倒して眠ることに激しい恐怖があるようだった。彼にとって全身を無防備に横たえることは過去の屈辱をなぞるに等しいらしかった。ドモンは何も言わず毛布を部屋に投げ込む。アオはわずかな空気の流れの変化に気付き、膝と腕に埋めていた顔が上がる。痣や古傷で黒ずんだ醜い肌の白い顔は慌てた。ドモンは何か言うのも厄介な心地がして無言のまま扉を閉めた。リビングのソファーに腰を下ろし項垂れる。もうすぐ正規雇用の使用人たちが出勤する頃だった。反対にドモンはこれから昼過ぎまで寝る時間だった。 ◇  店にミモリ好みのたいへん器量の良い男が客として入り浸っているという噂が流れ、ミカモトは真偽を確かめるよう郭に張り付いていた。ミモリはその間厳重なセキュリティによって囲まれたプライベートルームという名のシェルターに引きこもると言っていたがおそらく私室で色事に耽っていることだろう。客や床夫に警戒されるため服装を整えるよう言われ、彼女はは歩きづらいドレスに身を包んでいた。ミモリは酷く呆れた様子で彼女に膝で窄まるベロア生地のワインレッドのドレスを与えた。彼の小倅の婚約者に贈りはしたが気に入られず処分に困っていたらしい。しかし小振りでいくらかカジュアルさのあるこのマーメイドドレスは腿が開かず非常に歩きづらかった。足元で広がった裾も床を拭き掃除しかねないほどで、踏んだり躓いたりしながらミカモトは郭を不自然に徘徊していた。彼女は何度かレグナの籠る個室の前で足を止めた。防音設備は整い、監視カメラも設置してある。心配することはない。店側はあらゆる暴行を容認してはいたが、レグナはミモリの気に入りでサブ(くるわ)マネージャーも細心の注意を払っている。彼の個室の襖を眺めミカモトは何をしているのか何度も忘れたがふと思い出してサブマネージャーから空きそうな個室を無線で誘導される。この監視カメラは客を慮り最低限の画質に留めてある。客層は様々で、経済力や影響力の観点からいえば上は政治家や財界の重鎮、下はツケ払いも踏み倒しかねない貧乏人もいた。店はそういった者たちの家族まで老若男女問わず売り捌いた。ミカモトも家宅捜査と連行、売買に駆り出されたことがある。この歓楽街は老女でも老翁でも容赦なく慰贄にし、そこには憐憫だけでなく嘲笑的で物好きな需要が確かにあった。ミカモトもミモリに連れられ犬と姦するそういった経緯の翁を見たことがある。しかし10歳前後から30手前までの若い美男子愛好家のこの権力者の関心はいまひとつのところだった。  ミカモトは新たな指示を受け、レグナの個室の前に戻った。ちょうど良いところで襖が開く。育ちの良い所作で自分の出てきた襖を振り返り、隙間を作らず閉じた。背はミカモトの基準になっているミモリの息子と比べるとそこまで高くはないようだったがすらりとした四肢と短い胴、長い脚は彼をおそらく実際の背丈よりも高く見せた。明るめの豊かな茶髪が印象的な美青年で年の頃は20代前半か、大人びた10代後半といった具合だった。彼はミカモトへ気付いたが、何も見なかったかのようにすぐさまハシバミ色の瞳を逸らした。そのガラス玉のような目はよく照り、ミカモトのアパートの窓に掛けたサンキャッチャーのようだった。一目でこの人物だと判断した。どの床夫にも大体共通している色が白く、冷淡な印象があり、鼻梁の通った若い男だった。ただミカモトからみたミモリの好みでいうのならこの青年はわずかばかり、しかしながらミモリの許容範囲を越えて目に丸みがあった。ミモリは切れの長い目が好きだった。ミカモトは転びそうになりながらその美しい客を追った。歩き方も品が良い。ただ硬貨の置き方や紙幣の並べ方にいくらか雑さが窺えた。床夫との時間を終え一刻も早くこの場を去りたいといった類の羞恥心でもあるのか娼館を出ると彼はせかせかした様子で逃走を防ぐため店を囲んだ堀に架かった橋を渡っていった。郭チーフに訊ねればあの客はレグナを3回ほど指名しているらしく、所持品や身形から貧民窟(スラム)の成金と推察された。従業員の間でも噂になっているらしく、その見た目の優美さから成金孔雀と呼ばれているらしかった。ミモリに報告しに行くとやはりこの支配人は私室で男児といえるくらいの床夫を犯していた。その子供はまだ自分の運命を悟れず、受け入れることも出来ず暴れたようで、報告する間もなくミカモトは折檻を任じられた。男児は泣き叫んだがミカモトは耳を引っ張り懲罰房(あなぐら)へ連れて行った。  報告が完了したのはその2時間ほど後でミモリは腹を立てていた。ベッドには金襴ドレスを着て(はべ)るレグナがいた。 「いっくらワシ好みといえど、戸籍ナンバーが付いてるんであろ?人権があるんじゃなぁ?人権があるんだろう?人権が?くだらん法律なんぞ作りおって!ワシゃ人権なんぞというくだらない権利が大嫌いじゃ!」  肛門に瓶を納めた美男子から注がれるワインを一気に呷ると唾を飛ばしながら支配人は怒鳴った。 「大借金でも負わせて剥奪するか?いや、そんなコトが可能なものか…蘭紅に一芝居演じてもらうか…賓客にしてしまうか…ミカモト、次来店したら捕えろ。五体満足で傷は付けるな。注射痕のひとつやふたつは構わん」  雇主はミカモトの首肯に鼻を鳴らし天蓋カーテンを捲った。 「人権!なんとくだらん。それを守って一体ワシに何の得がある?濡肉(おめこ)でも貸してくれるってのかい、え?人権!人権剥奪を公約に、次の選挙にでも出るとするかの?え?ミカモト!そうしたらぽまえは大統首領(プレジデント)のSPじゃぞぃ。そうしたらお前さんは、大統首領の愛妾だ。あのバカ息子じゃなく、お前さんにすべてをくれてやるからのぉ」  ぶつくさと文句を言い、レグナの膝に寝転ぶやいなや猫撫で声へと変わった。 「お前さんは今日、ワシの飼猫になる男に抱かれたそうじゃのぉ?いずれ抱かれる悦びを知るというのに、バカな男よ。ああ、いかん。人権団体の小うるさい凱歌がまだ聞こえるぞぃ…」  頭痛を堪えるようにミモリは額に脂ぎった手を乗せた。都市部から出てきた人権団体は特にこの歓楽街に対して強い姿勢を示している。生活習慣が違うためにこれという妨害行為はなかったがビラを貼られたり示威行為などは何度かあった。人権団体に保護されたこの店の床夫も何人かいた。 「次来たら、皆取っ捕まえて世衒(ぜげん)に売り付けてやるからな。死姦クラブと解剖バーも人材不足で困っとったからの。そのつもりでおけ、ミカモト。ぽまえが逝くことになろうと殺すでないぞ」  レグナはミカモトを向いた。膝を潰す脂身に埋まった男が彼の顔を下に戻した。 「御神本がそんなに気に入っとるか。彼奴(あやつ)が逝っても極上魔羅は張型にしてお前さんにくれてやる。まぁ、ワシのには劣るがの。御神本死すとも太魔羅は死なん」  打掛ドレスの袖から伸びる骨張った手が5匹の芋虫に捕まり、脂で膨らんだ顔を触らされる。 「御神本、その酒瓶を持ってとっとと失せろ。今日はバカ息子も居らんようだからの。あの昼行燈(ネオン)にあの客のことを漏らすなよ。何をするか分からん。買収してワシを殺そうだのと画策するかも知れんからの」  彼女は命じられるまま重厚な机に乗った美男子を抱えた。腹部を圧迫する酒瓶によって動きが取れないらしかった。 「妬くでない、妬くでない。ワシが妬くぞ」  背後からミモリの高い声が聞こえた。苦しげな美男子とともに部屋を出て、タコ部屋で酒瓶を抜いた。ぽっかりと穴が開き、赤い内部がよく見えた。美男子は体液に濡れたワインボトルを目にするとミカモトに泣き付いた。彼は暫く声を殺して泣いていたがやがて彼女に寄りかかるようにして眠った。それからタイミングを見計らいレグナを迎えにいった。襟合わせのドレスを大きく乱した彼はベッドで横たわっていたがミカモトが入室すると怠そうに上体を起こした。 「腕の傷、開いてないか」  枷の嵌められた手は慎重に傷のある腕に触れた。彼女が頷くとレグナはわずかに苦みを帯びた微笑をこぼす。昨夜薬を塗ってもらった。身体を洗うのも手伝ってもらっていた。 「それならいい」  レグナを連れて風呂場に向かった。ミモリが興味を示す成金孔雀と裏で呼ばれている男について訊ねたが、よくいる客とそう変わらない平凡な男らしかった。 「確かにいい男だものな。目移りしたのか」  ミカモトは首を振った。冗談だったらしく彼は笑った。 「分かってる。アンタがオレを好いているってことは…ああ、調子に乗ったわけじゃない」  後ろめたさが彼女の胸を過った。恋人とまったく同じ目を見られなくなってしまう。 「あのジジイは死んでもいいとか言うが、アンタには生きていて欲しい。その傷も、オレは嫌だ」 「ごめんね」  レグナはゆっくりと首を振った。ミカモトは恋人とよく似た姿から目を伏せる。 「アンタはオレを誰と重ねてる?昔の恋人か」  彼女は返事をしなかった。所在ない眼差しはレグナの目に真っ直ぐ帰る。先に逸らしたのは彼だった。 「オレには兄がいた。顔も名前も知らない」  ミカモトは恋人の名を口にした。レグナは彼女をまた観察するように眺めた。 「アンタみたいな人と上手いこと仲良くやっていたらいいけれどな」  ミカモトはもう何も言えなくなった。彼の目が鋭くなる。胸が苦しくなった。兄弟どころか同一人物のようでさえあった。ラグナのことでまず間違いないと確信するほどに。 「どうした?腹でも痛くなったのか。腕の傷か?」  彼女はレグナの足元ばかりを見て固まっていた。 「帰ったらまた薬塗る。アンタが暇じゃないことも分かってるけれど、化膿する前に医者に診せたほうがいい」  ミカモトは空返事でやり過ごした。狭い自宅アパートへ帰っても彼女は着替えもせずに遠目からぼんやりとレグナを眺めていた。ミカモトの家では、彼はチップを埋め込んだ片足の枷のみで、家事能力のない家主に代わりバスタブを洗ったり掃除をしたりしていた。普段ならば長時間繋がれたことで傷んだ手首足首にクリームを塗ったり揉んだりしていたが今日の彼女はレグナに接することができず、恋人と同じ姿を物静かな目で追っていた。蛇口を捻る高い金属音でミカモトは我に帰る。隣に座り彼女へ肩を預けるレグナの匂いだけはわずかに恋人とは違う気がした。カーペットもラグもないフローリングに置かれた手にレグナは手を重ねた。 「前の恋人のこと、考えてた?それともあの、カッコいい客か?」  力無く隣を見る。相変わらずの愛想のない冷淡で美しい顔をしてミカモトを捉えていた。彼女は首を振り、レグナから目を逸らす。 「悪い。あんまり話したいことじゃなかったよな」  落ち込んだ様子のレグナの髪に指を入れ、彼の頭を抱き寄せる。開け放した窓から入る風によって明朝の空に映えるレースカーテンが踊った。少し肌寒いくらいが心地良かった。まだ近隣住民たちも寝静まり、物音といえばすべてこの空間か、隣室か、それか下の階で微かに起こる生活音だった。そこに寝息が混ざる。まだ飯も食わせていない。湯浴びもさせていない。ミカモトは寄り掛かっていたベッドを直そうと思いたったが、重なったままのレグナの手は彼女の身動きを封じた。外させることは出来た。しかしミカモトはそれをしなかった。冷たく乾いた手と手ではこれという体温も感じられなかった。それでも彼女は合わさった手を凝視していた。ミカモトよりは逞しさがあったがそれでも細く、枷に噛まれた傷がいくつもついている。それを撫でようとした手は彼の手の下にあった。 「ごはん」 「…ああ、分かった」  まだ眠気を残しながらレグナはミカモトの上から手を除けた。娼館では粗末な雑炊しかなかった。時折床夫たちを憐んだ金持ちによる盛大な催し物があったり、人権派団体や反性風俗連盟による炊き出しはあったものの、そう頻度の高いものではなかった。帰りに買ってきた(よろず)ストアの弁当をレグナは温めにかかった。ふと、この家に来たばかりの病人のことを思い出す。栄養価の高いものを出したつもりだったが怯えきり、雑炊を求め、それ以外のものが口にできずにいた彼に同じような雑炊を作った。不安定な日は他の床夫の粗末な食事に大きな引目を感じ、安価で添加物まみれの弁当を前に震えて泣いていたこともある。そういう日もミカモトは雑炊を作った。レグナは床夫の暮らしが短いようで、そういう卑屈なところがなかった。テーブルの奥で麻婆豆腐を食べる姿をミカモトは眺めた。ラグナも匙ひとつで食べられるものが好きだった。水と卵を入れただけの、娼館のものより粗い雑炊を口運ぶ姿と重なって、しかし目の前の青年は笑いかけ、思い出は泣いていた。

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