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第7話

◇  格子の外でミモリは手を付いて息子に犯されながら恍惚としていた。ミカモトは事実上の解雇を涎と媚声の中で告げられた。古びた木製の格子はドモンに突かれるたび弾む小柄でありながら肉々しい巨体に体当たりされ悲鳴を上げていた。ミカモトはそれを座敷牢にできた床夫や拷問被験者の死体に群がる蝿の交尾同然に視界に収めていた。格子扉が開かれ、ミカモトはひとつになった親子の脇を抜け、自宅アパートに帰っていった。恋人の遺品が入った段ボールから古びた麻袋を取り出す。それを眺めぼんやりしているうちに半日が経っていた。手紙と小さなプレゼントボックスは弟に向けての物に違いなかった。サイドチェストに置かれた聖牌も麻袋に片付けてしまう。  再び朝起きて夜寝る生活に戻った。曇空で湿気った空気をしていた。明日にでも雨が降りそうだった。この土地では値の張る花卉(かき)を抱いて彼女は墓園へ向かっていた。管理人の聖侶へ恋人の遺品を預け、墓石の前に普段よりも大きさのある花束を供えた。暫く墓石に掘られた名前を眺め、蛾とも蝶ともいえない鱗翅目の虫が花に止まると目移りした。呼吸するように翅が開閉しているのを飽きもせず飛び立つまで長いことそうしていた。背後に微かな体温と気配を覚えて振り向いた。ハシバミ色が音もなく立っている。陰気な感じも彼にかかると危うげな色気を引き立てていた。 「そこが、あいつの兄貴の墓なのか」  濃厚なホットチョコレートを思わせる声でカキザキといっていた青年は訊ねた。しかしその口調は確信を持っていた。ミカモトは首肯して墓石に直る。 「解雇されたと聞いた」  ミカモトはまた肯定する。 「なら、協力しろ」  彼女は背後から降る甘酔いする声には耳も貸さず、このままここで彫刻にでもなろうとばかりに固まっていた。 「お前とお前の兄の人生を狂わせたあの場所を、潰したいとは思わないのか」  背後の声はわずかに怒気を含んでいた。彼の話口には努めて冷静を装おうとしているところがあった。ミカモトは聖侶に遺品を預けたことを伝えると恋人の眠る石碑から立ち去った。 「おい」  もう彼に言うことはなかった。自宅アパートに帰ると玄関扉の把手(はしゅ)には新しいスーツが掛けてあった。安物の破れたスーツで傍に立つなと仕立てられたものだった。恋人の遺らなくなった部屋で四肢を投げ出し、仰向けになって窓の外を見上げた。斑ら模様の灰白色は微かに流れている。目蓋を閉じた。恋人に対しても、その弟に対してもこれという感慨はなかった。  新たな雇主に呼ばれ、高級住宅地のタワーマンション最上階で、ドモンの自宅を訪れる。ここには一度来たことがあった。アロワナのいる大きな水槽と、柱のように上へ伸びた熱帯魚の水槽があったのをよく覚えている。インターホンを鳴らすとミカモトの住むアパートの3倍4倍は大きいリビングに通された。ドモンはまだ自室で仕事をしているらしく、サエグサ-三枝-・フォンスゥと名乗るパーティーで見かけた女がソファーへ促しレモンティーを出した。ドモンの婚約者らしく、左手の薬指にはオレンジともピンクともいえない曖昧な色味の輝かしい指輪が嵌められている。彼女もまたすぐに出掛ける用事があるらしかった。ドモンを待つように言われ、彼女は出て行ってしまう。ミカモトは大きな水槽を泳ぐアロワナを観賞し雇主を待つ。暫くそうしていると不自然なほど真っ白く塗られた扉が開いた。リビングに入ってきた者と目が合う。皮膚病の犬のような髪色の青年は眼球を落とすほど目を瞠った。 「遠廻(をみ)…!」  貧民窟の空巣狙いかもしくは浮浪者かと思うほど高級マンションにはそぐわない服装で、翻った裾から黒ずみの目立つ白い脚が露わになっていた。以前勤めていた高級娼館の中でも下っ端床夫たちも同じような恰好をしていた。彼はミカモトに縋り付く。以前の雇主が主催したパーティーの会場入口で見たことがある。何百人と似た系統を解雇された娼館で見てきたが 、正面からその面差しを捉えると霊感に打たれた。懐かしさと息苦しさに彼女は顔を背けた。だが硬く乾いた薄平たい掌が両側からそれを許さなかった。 「遠廻、どうしてここに…?元気にしているのか?」  彼は瘢痕や黒ずみの多い顔を歪め、無遠慮にミカモトの頬に触れた。それから髪を撫で、肩や腕を確かめていく。よく知らない者に親しげに接せられ、彼女は戸惑いも狼狽えもせずアロワナへ意識を逃した。以前の勤務先で気が狂ったり、精神を病んでしまう者たちを何度か看てきた。この者もその類に違いない。顔立ちや雰囲気からいっておそらくあの娼館の元床夫だ。ドモンと関わった床夫が消息不明になることは多々ある。 「遠廻…?」  気の狂っているらしき青年が首を捻り、それと同時に近くのドアが開いた。不機嫌げなドモンが現れ、主人の客に対する無礼を強く叱咤する。そしてミカモトを向いて、人格そのものが変わったのかと思うほど落ち着き払った態度を示した。肉体を辱められ精神を蝕まれたらしき青年は深い落胆とともに純白に塗られた扉の奥に消えていく。ミカモトは彼にまったく関心を持たず、ドモンは彼女のその様子に陰湿な笑みを浮かべた。 「あの犬はアオという。躾が出来ていなくて悪かった。万年発情期でな」  犬を見た覚えはなかったがドモンは白く照るドアを顎で差し、犬の正体を理解する。 「お前を気に入ったらしい。父上の(もと)で培った性技(テクニック)で、代わりに躾けてやってくれないか。見境なく発情するとどうなるのか」  簡単に了承する彼女に新しい雇主は満足し、道具の場所や事によってはミカモト自身で躾けてもいいと付け加えた。 「恥じらうふりをするかも知れないが、あれでとんだ色狂いの変態(すきもの)穴だ。遠慮しなくていい。拒絶は要求だと思っていてくれ」  ミカモトは頷いた。すっかり機嫌を良くしたドモンは仕立てたばかりの彼女のスーツを軽く褒め、互いに仕事へ戻っていく。浮いた雰囲気の扉を開く。人型をした、間違いなく人間である飼犬はマットレスの上に突っ伏していたが開いた扉にひどく怯え、濡れた目元を乱雑に拭った。ミカモトは扉を音を立てないよう振り返り丁寧に閉め、困惑に満ち潤んだ目を見下ろす。彼はいくらか晴れやかな表情で馴れ馴れしくミカモトの名を口にした。何か期待しているような感じがあった。彼女はこの気の狂った青年の飼主であり自分の新しい雇主の言葉に従って、その期待に応えた。痩せ細った肩を掴み床に押し倒す。安堵していた痛々しさの残る美麗な顔立ちが強張り、ミカモトの名を呼んで抵抗した。襦袢ローブの腰で結んだだけの紐を解き、裾を広げた。肉付きの悪い腿が露わになる。傷や痣の治りが悪かったのか変色したまま消えずにいるのが白い肌によく目立つ。 「遠廻…、遠廻…!どうして…!」  骨の浮かぶ枝切れみたいな指がミカモトを拒んだ。彼女は構うこともなく腿を撫で摩る。嫌がる手を何度か払い除けたが、とうとう彼の使っていた腰紐を折り畳んで、その手を叩いた。アオという犬はミカモトを信じられないとでも言いたげに見つめ、大粒の涙を溢した。この腰紐の鞭を使うとアオは(たちま)ち従順な姿勢をみせはじめ、娼館で得た経験でアオを躾けるつもりだったが、ドモンの言う具合の悪さは特に見当たらなかった。口元に指を出せば喉奥まで咥え、その舌遣いも悪くない。脚を開けと命じれば、多少飼主と違う相手に抵抗はあったようだがほぼ一直線になるように膝を開いた。自慰もミカモトの思うものとは違ったが難なく後穴はいきなり人差し指から薬指までを呑み込み、そのうち拳まで呑んでいった。前にある性器のほうはというと、わずかに角度を持つだけで膨らみも硬さもなく退化しているような印象があった。彼はミカモトを見上げながら許しが出るまで菊蕾を自らの手で弄っていた。水膜を張った目は照明を真っ直ぐ受け余計に悲愴感を煽っていたがミカモトは微塵も気にすることなくベッド下の箱に手を伸ばした。アオは瞬きして眦に涙を流す。 「嫌だ…遠廻……っ」  強い拒絶を示すアオの細い首を片手で掴む。よく掃除されたフローリングに押し付けると彼は苦しがった。それでもまだ何か期待をしている瞳はミカモトを放さない。今にも折れそうな頼りない指がミカモトの手を引っ掻くがそこに威力はなくただ撫でているに等しかった。 「君は、こんなことをする子じゃ、なか…っ、」  首にもう片方の手も添えた。客ならばとにかく床夫には暴力による指導と矯正が提案されていた。犬が鳴くのを止めるとミカモトもまた片手だけ放した。様子を窺い、まだ理解できていなそうな目は怯えたままで、半開きの唇は慄いている。それを彼女は発情による強い不満と激しい興奮だと踏んだ。引き寄せた箱の中に入った歪な張型を口元に突き出す。彼は一度虚ろな目で舌を伸ばしかけたが、涙に潤む瞳は輝きを取り戻し(かぶり)を振った。 「やめて、こんなことは…もう、遠廻…っあうぅ!」  曲線の連なる紫色の張型を喋った口に突き入れる。歯がシリコン素材らしき表面を傷付けた。ミカモトは片手で箱の中にあったローションを垂らし、すでに拳まで入る無花果(いちじく)の果肉を(ほぐ)しにかかった。彼女のその工程は意味を成さず、色付いた艶腔は不満げに細い棒を一気に食んだ。まだ空腹といった具合で蠢いている。 「遠廻ぃ…」  慣らし棒を抜くと唾液のついた張型を貪欲な箇所へ食わせた。これにはいくらか抵抗感があり一気呑みというわけにはいかずミカモトは慎重に連なった隆起を食わせていく。 「あ…っあぁっ遠廻…そんなぁ、…」  身震いしながら気の触れた犬は内部から襞を纏わせ張型を奥へ誘った。無理なく次々と丸みを頬張らせていく。すべて合わせて5つが呑まれ、ミカモトは休む間も与えずに挿れるのと同じ加減で張型を引いた。それを何度か繰り返し底部にある電源を入れるとモーター音を轟かせ、振動をはじめ、苦しむ毛虫のようにうねった。 「あっあっあぁ、遠廻、そんな、そんなァっ!」  飼犬も電源が入ったみたいにのたうちまわりフローリングの上を跳ねた。 「遠廻っ、遠廻ぃっ!あっ、やっぁぅ!」  ミカモトは顔色ひとつ変えず痩せた下腹部を押した。濡れた目はこれ以上ないほど開き、眦から目頭から下睫毛から涙を落とす。 「ァッやめて…!遠廻、やめ…苦し……っぁァッ」  彼女の掌は薄い下生えを押さえたままで外部からも犬は悦いところを圧迫された。 「遠廻…っ!遠廻、やめて、やァっ、遠廻…!だめ、だめっんやぁァッ!」  アオは一際高く鳴くと身体中を震わせた。わずかな傾きを保ったままの肉蛹はぶるん、ぶるん、と数度深く頷いた。まだ発情は治まらないようでまだ生きている無機物をミカモトは抜き差しした。痩身はまだ絶頂に溺れ床を蹴って逃れようとするがミカモトはそれを許さなかった。すべての力を使ってでも逃亡を図りたい飼犬は度を超えた快楽に悲鳴をあげた。押し出されていく無機物をミカモトは捲れた窄襞に逆らい戻した。犬は大きな波を打って弛緩する。意識を飛ばしていたがまだ四肢は引き攣っていた。秘蕾はまだ体内に納めたままの淫具を咀嚼しているがミカモトはゆっくり引き抜いた。 「ぁ……ん」  アオは意識を失いながらも眉を寄せ艶のある声を漏らす。片付けに入ったミカモトのところへ雇主がやって来た。彼はドアを開くと室内を見回し、卑猥なぬめりを帯びた紫色の道具を認めた。ミカモトは完了を告げた。ドモンはまだ彼女の手にある淫具を見ていた。 「そこの淫乱穴にお前の種を注いでやれ。どうせお前のその肉棒も使うあてはないのだろう?」  ミカモトはほんのわずかな時間逡巡し、それからドモンの言葉にぴんときて承知することにした。雇主はまた満足げに彼女の仕事ぶりを褒め、扉脇の壁に背を預けた。ミカモトは出て行かない彼を見上げた。人前で(おこな)ったことがないわけではないが、何百回とカーテン越しからそれを見ておきながら彼女はこの営みを二者による密なものと信じていた。 「見ていてやる」  腑に落ちない所はあったが彼女はスラックスの前を寛げた。 「種壺の分際で、いつまで寝ている気だ」  ぐったりした飼犬は慣らされた低音に飛び起きる。 「舐めて勃たせてやれ。御主人様の客だ、恥をかかせるな」  途端にアオは顔中を真っ白にし、ドモンを見上げた。 「土門様…お願いでございます、ご慈悲を…」 「貴様はいつから俺にお願いができるほど偉くなった?」 「どうか…」  ドモンは大袈裟に飼犬から目を逸らした。 「悪いな、御神本」  奇異の目を向けられることは多く、忌避されることもあった。そのことについてミカモトは特に傷付くことも反発することもなく当然のように受け入れていた。たとえ気が狂い、一方的な既視感を抱かれていようともミカモトにとって、そして実際ほぼ初対面に等しいこの青年が嫌がったところでこれという所感はなかった。 「ありがたき、し…」 「何を勘違いしている?」  ミカモトは眼差しで指令を受け、箱の中を漁った。開口具が入っている。アオは怯えに怯え、身を守るように頭を抱えた。 「やらせていただきます。舐めさせてくださいまし…」  飼犬は虚ろな目をしてミカモトの前に移動した。消え入りそうな声に感情はなく、一度直したスラックスを繊細な手付きで開き、下着の奥から彼女の砲根を取り出した。色事に於ける絶妙なリズムと秀抜な舌遣いによってミカモトの逸物はみるみるうちに武張(ぶば)る。放出欲も大波に乗って現れた。ドモンは敏くそれに気付いたらしかった。 「イかせてどうする。勃たせろと言ったのを忘れたか」  ミカモトは下半身を咥える形の良い額を押して離させた。熟れた李のような先端と杏色の唇に儚い橋が架かる。癖がミカモトの肉体を支配し、傷んで硬くなった髪を撫でてしまう。泣き腫れた目元にある虚無から解放された瞳に射抜かれ、やってしまってから彼女は過ちに気付く。 「彼女を癒してやれ」 「土門様…この者は…」 「俺の客だ。今言った意味は分かるな?」  飼主に冷たい口調で詰め寄られるとアオは俯いて動かなくなってしまった。ドモンはまたミカモトを一瞥する。そこにはまた指令が含まれていた。雨晒しになった捨犬のような青年を再びフローリングに叩き付ける。 「遠廻…やめて…」  ミカモトは彼に陰を重ねた。痩せた腕は彼女の肩を突っ撥ねる。 「やめて、遠廻…ね?良い子だから…それだけは…!」  雇主が鼻で嗤う。ミカモトは続けた。恋人にするような愛撫もなく、ただ事務的に彼の劣欲処理役として力んだ膝を開き、熱を内肉に沈めた。 「あぁ…っ!抜いて、抜いて!あっ!」  気の狂った青年はまた泣きながら喚きはじめた。ミカモトの肩口を殴り、上等な生地のスーツを引っ掻く。その発作的な凄まじい拒絶に雇主の指示を仰ぐが、彼は続けろとばかりの凍てついた愉悦を向けるのみで、制止の念はそこには微塵もなかった。ミカモトは根元まで突き入れた。犬の内部は細やかに蠢き彼女の豪剣に媚びる。 「遠廻…っ、遠廻!あぁっ…んっぁ!」  腰を引くと柔襞が絡み付く。抜け切る寸前でまた最奥まで貫いた。 「やっあっんんッ!」  枝のように細く白樺と同じ色をした、卑屈な美しさのある指が噛まれた。しかし子猫の長鳴きに似た声は止まらない。欲望の処理は可能と見込みミカモトはそのまま肉を弾ませる。 「抜いて…っ抜いて…遠廻……オレたち、兄妹なんだよ…?」  黒ずみながらも透明感のある肌の下から薄紅に染まっていく。それでも彼はミカモト本人にも心当たりのない、意味不明なことを言った。そういった役に徹して愉しむ店は確かにある。 「抜いて…あっ、あうぅ…っ、んっ、」  よく喋る口の中はさらさらと潤い、眇められた目には快楽に溺れかけている。どこへ突き入れても強硬な楔は柔肉に付き添われながら巻き取られる。ミカモトも快感に呑まれかけ、己の性感を追うための姿勢に変わっていく。 「素敵だな、御神本。お前は俺の最高の部下だ」  殺風景な室内には新たな雇主の哄笑(こうしょう)が響いた。そこには侮蔑と陰湿な喜悦が含まれている。 「土門様…」 「まるで禽獣(きんじゅう)だな」  交尾中の犬は切なげに飼主を見上げた。きつい収縮がミカモトの股を襲った。上体を起こそうとしながら奥を穿たれるたびに力が抜けている。 「あっあ、んぁ…っ」  ドモンは壁から背を外し、寝そべり犯されるアオの元に屈んだ。ミカモトの猛茎を引き抜かんばかりに陰肉が蠢いた。 「とんでもないド変態を飼っていたものだ」  赤くしている頬をドモンの端麗な手が撫でた。アオは眉尻を下げる。淫具で達した時とは違う生々しい震えを伴い、彼は呻きながらも艶めいた声を漏らして果てた。その収斂にミカモトもまた迸った。勢いよく放出された精が感じやすい腸壁を抉る。 「生憎俺の種は父上にしか注がないと決めたのでな。貴様のような牝犬に捨ててやれるものはない」  絶頂の余韻と爆発的な体内射精に恍惚とした表情の犬はまるきり聞いていないようだった。 「アフターケアもきちんと仕込んでやっただろう?」  ドモンの声音は胡散臭いまでに優しくなり、犬の錆びたような髪色を撫でた。ミカモトはアオから身体を抜いた。フローリングに夥しい量の白濁が点々と小さな池を作る。引き抜く摩擦にも彼は性感を煽られたらしく悩ましげに呻いた。そして何にも焦点を合わせようとしない双眸から涙を溢し、自分を追い詰めた熱芯の汚れを舐め取っていく。そして最後には躊躇もなくそれが自然とばかりに襦袢ローブの垂れた袖でミカモトの肉砲を拭った。 「よくやった、御神本。シャワーでも浴びていくといい」  雇主は普段の調子に戻り、部屋を出て行った。ミカモトは虚ろな様子で啜り泣くアオを気にしたがシャワー室に向かった。そしてふと飼犬を洗う必要性に気付き一度脱ぎ掛けた真新しいスーツを直しシャワー室を出た。アオはミカモトの自宅ほどもあるシステムキッチンに突っ立っていた。部分照明も点けず薄暗い場所で気配もなかった。ミカモトも圧を与えないよう気配を消し、足音を殺して近付いた。さかし細い手の中に光る器具を認めてしまうと自身よりも背の高い、痩せた身体に飛び付き、フローリングの上を2度3度転がった。ミカモトはステンレス製のキッチンナイフを鷲掴む。下に敷かれた犬は泣きながら怯えている。緩んだ指から刃物を抜き取りシンクに放る。親指と人差し指の股をいつの間にか切っていたらしく赤い線ができていたが大した傷でもなかった。アオを助け起こす。彼はミカモトを見て喜びに満ちた顔をした。 「遠廻…やっと…」  彼女は冷たく目を逸らした。ほんの一瞬の喜びはこの犬にとって深い打撃らしかった。物静かな広いリビングに耳を劈くような声で叫び出し発狂した。ミカモトは顔色ひとつ変えずに瘡蓋などで黒ずむ華奢な手首を掴んでシャワー室へ引っ張る。  飼犬は泣いてばかりで自力で立つことも出来なくなっていた。部屋に帰すとやがて寝てしまう。ミカモトは泣き喚く青年を洗うだけで自分はシャワーを浴びなかった。帰り際にリビングで少しアロワナを眺めていると自室からドモンが出てきた。気怠げな雰囲気とわずかに乱れた髪、妖しい感じのする目付きは情事の最中(さなか)かその直後を思わせた。彼はソファーに倒れるように腰を下ろした。テーブルの下からガラス製の大きな灰皿を出してタバコを吸い始めた。この男から喫煙を匂わせる香りは今までに一度も感じ取ったことがなかったためミカモトはアロワナから少しばかりの間意識を逸らしてしまった。ミカモトは犬の悪戯と仕事完了の旨を報告した。普段は凍てついている形の良い目はまだ粘っこい艶美な光沢が差していたがいくらか落ち着いたようだった。 「ご苦労」  彼の声は掠れていた。ミカモトは高層タワーマンションを出た。ドモンの婚約者がタクシーから降りるところと鉢合わせ、互いに簡素な挨拶をした。自宅アパートに戻ると鍵を掛けたはずの玄関が開いていた。身構えながら中に入ると玄関框に男が横たわっている。口にはガムテープが貼られ、両腕両足は後ろで結ばれていた。身体中をラッピングするようなリボンで巻かれていた。玄関の照明を点けるとハシバミ色の瞳がミカモトを睨んだ。墓園で会った美青年は暴れ、外すよう求めているらしく、見た目の割に固く縛られているリボンを解く。口を封じるガムテープは彼自身で一気に剥がした。彼は以前注射を打った時のように汗ばみ、自由を得ても玄関に座ったきりだった。

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