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第9話

◇  ラグナの遺品だった寝間着はカキザキにはきつく、ぱつぱつとして前は閉まらなかった。結局彼は泊まることになりほぼ裸体を晒したままベッドの壁際に押しやられていた。情を交わすわけでもないためか、ミカモトは頓着もせずその隣に入った。カキザキは不機嫌げな顔立ちに怪訝さを加えたものの、何も言わなかった。寝返りをうつと目の前によく鍛えられた胸板が視界に広がっていた。ミカモトはそこに頭を埋めた。懐かしい感じがした。2人で布団に入る時はこうしたものだった。すると最初で最後の恋人は頭を撫でてくれた。互いに口数は少ない性分で、話すこともなかった。この空間では外の些細な音と、共有しているガーゼケットやシーツの擦れる音が最も大きく聞こえた。 「…リンバラのこと、気にならないのか」  習慣に則って丸まろうとした時、存在を忘れていた同衾(どうきん)の片割れに膝をぶつけた。それが話の糸口になった。 「なる」 「それなら何故、何も訊かないんだ」  喉の調子はまだ元には戻っていないようだがそれでもガナッシュチョコレートのような声に掠れは少なくなっていた。 「きいても、なにも、ならないから」 「聞いてみて楽になろうとも思わないのか」 「うん」  眠気はなかったがミカモトは目を閉じた。 「あの荷物、渡しておいた。お前に会いたがっていたが、会わないんだろう?」  脳天をカキザキの胸元に埋めたまま彼女は頷いた。 「仕事面では極めて優秀だが私生活では腑抜けと聞いていた。本当かもな」  ミカモトはもう見ることはないと思っていた寝間着の上からカキザキの胸筋を触った。彼女の細い手首は掴まれ、シーツに落とされる。 「胸を触るな…」  彼は呟いて壁を向いてしまった。そこに軽く頭突きする。覚えのある背中より反発と肉感があるそこに髪を擦り付けた。カキザキは息を飲んだが何も言わなかった。ミカモトはカキザキの身を余裕なく包む寝間着の袖を摘んだ。丸められなかった膝を伸ばし、しなやかな脚に組み付く。体重を乗せれば折れてしまいそうな脆さはなかった。知らない人が隣にいるのだと強く認識し、ミカモトも寝返りをうって随分前に自分で選んだ他人の寝間着に背を向けた。暗い部屋で白い壁が窓側からグラデーションになっているのを徐々に重くなる目蓋を持ち上げて眺めていた。後ろから浅い息遣いが聞こえ、振り返る。しかし熱に魘されているらしき同衾相手を確認する前に視界が塞がれる。嗅ぎ慣れた洗剤が薫り、微温い布が顔面を覆う。 『姉さん…』  顔に掛けられた布の奥で、音にはならない吐息が紡ぐ声が聞こえた。睡眠妨害とさえいえる荒い息が続き、やがてベッドが大きく軋んだかと思うと彼は起き上がった。ミカモトは黙ったままでいると抱え上げられベッドの真ん中に移される。カキザキはトイレに消え、ベッドには戻らなかった。まだ肌に合わない気配と新しさの消えない匂いにミカモトは浅く短かい眠りを繰り返した。夜が明けていく部屋で床に座って寝る上半身が白く浮かび上がっていた。ミカモトは忍び足で近寄り寝間着を掛ける。何となく彼女はこの客ともいえない客人の目が覚めているような気がした。暫く前に立ち、身動きひとつとらない姿を見下ろした。不意を突いて喰らいつく捕食者のように成金孔雀と呼ばれた男はハシバミ色を彼女に向けた。 「…お前の協力が要る」  ミカモトは強く首を振る。新しい雇主にはそうするように命じられていない。カキザキは眉間に皺を寄せた。 「本当にこのまま土門三森についていく気か」  肯定すれば明朝に相応しくない険しさで彼は通った鼻梁に皺を作った。 「お前は被害者だ」  カキザキの明瞭な寝言を無視してミカモトはベッドに戻った。二度寝を試みる。壁の質感を狭まった視界で眺めていた。背後では物音がする。おそらく着替えているのだろう。 「邪魔をした」  安いアルミ製の玄関扉が閉められる。 ◇  出迎えの口淫がないことに嫌な予感はしていたが、案の定、婚約者はまた蒸留酒を片手に酔っていた。恨みがましい半目で帰ってきたばかりのドモンを追う。彼女の前にあるガラスのローテーブルには見知らぬ若い女と、よく躾けたつもりの犬奴隷が乗り、本物の獣同然に交尾していた。フォンスゥはグラスを傾ける反対の手にバラ鞭を持っていた。 「お…かえりなさい、まし……」  戸惑った様子でアオはドモンに挨拶し、そして白く小さな尻を叩かれて腰を振った。黒いベルトを嵌め、若い女の下半身とアオの腰の間には太く傾げな架け橋が伸び縮みしていた。 「もっと腰振りなさいよ」  小気味良く氷がグラスとぶつかった。フォンスゥはヒステリックに叫び、ローテーブルの上でへこへことぎこちなく動く腰へ鞭を下ろす。ほんの短い間だけアオは腰をすばやく振った。ドモンは見て見ぬふりをしてシステムキッチンの傍にあるウォーターサーバーに向かっていった。離れたところから作り物のペニスで女を犯すアオを観察する。慣れていないか、もしくは忘れてしまった動きに彼は疲れているらしく、女を満足させられるほど腰を使っていられないようだった。ドモンは水を汲んで自室に籠った。愛しい人は広々としたベッドの真中に両手両足を盛大に開いて(いびき)をかいていた。ドモンは椅子に座り感情のない目で情人を凝視する。行為中に「孕ませてくれ」だの子袋だの稚児(ややこ)だのと吠えるのが酷く息子心を抉った。父の腹に子が宿ることはない。それだけが救いだった。しかし狂気染みた強迫観念が生殖の(ことわり)を外れ、この愛しい父に本当に子を孕ませてしまう恐怖から放しはしなかった。父に子供ができたらどうなるのか、激しい不安に襲われる。やっと手に入れた想い人が他人のものになる。自身の子であっても愛せるはずがない。デスクの上に乗せた拳が振動する。ふと聴覚にある変化が起こった。父の呼吸が止まる。厚い脂肪が気道を塞いでいるらしかった。ドモンは我に帰りベッドに近付いた。父は低く唸ると息を吹き返す。立ち眩むほどの深い安堵によって、愛慕(あいぼ)の奥底に見え隠れしていた殺意は掻き消えてしまう。ベッドの傍に片膝をつき、ぶよりとした手を取ると茱萸(ぐみ)の実を連ねたような指の背に口付けた。手の甲にも少し長く接吻する。彼はデスクに戻り、引き出しの薬包紙を乱暴にゴミ箱へ捨てた。綺麗に整えた髪を乱し、頭を抱える。目の前には清々しい景色が広がっているというのにこの自室に日は入らず、薄暗い中ドモンは奥歯を噛み締め、目を剥いた。父が手に入らない。頭皮に爪が喰い込む。父が子を孕みたがる。眉間に皺が刻まれ、鬱屈が唇を破った。空の鏡と化しているデスクを汚した。産ませない。父は息子の所有物であるべきだ。何故今いる息子だけをみない。殺すしかない。ゴミ箱にひとつ入った薬包紙を拾う。汲んだ水に粉薬を溶かす。殺すしかない。父を殺して、自分も死ぬしかない。でなければ淫乱な父は別の男に媚び、肉棒を乞い、孕みたがるのだ。自分は継げながった父の血を受け、嘲笑うに違いない。そして艶然(えんぜん)とした父を抱くに決まっている。許し難いことだった。ドモンは目を血走らせ、粉末の最後の一粒子まで逃すまいと薬包紙を傾け、指で弾いた。父を愛している。父を愛している。父を愛している。何度も唱えた。粉薬はすべて溶けなかった。それが忠告のようだった。決心が揺るぎ、かといって迷いを許さず、第三者がドモンを支配した。グラスが壁に投げ付けられ、鈍い音がたち、重苦しい(もや)が今の外の天気のように晴れ渡る。ノックもなくドアが開いた。部屋を覗く目は呆れた様子で酒を呷った。目が合った途端、何事もなかったように閉まる。また彼女が言うところの「ゼリービーンズほどの小僧っ子」と何かあったらしかった。その若そうな男と人聞きの悪いような関係であっても世間的な婚約の解消さえなければドモンにはまるきり興味のないことだった。しかしその都度陥る不機嫌が酒と自分専用のつもりで飼っている犬に向かうのはいくらか不服ではあった。  支配人が急遽代変わりした娼館はいくらか形態も変わり、売買や身請けも盛んに行われるようになった。支配人私室の革張りのソファーに品良く座るドモンは壁に射映された顔写真を眺めては、ミカモトに指示を出した。次々と多種多様な要望の少年たちが壁に映され、切り替わっていく。ドモンは爪を噛みながら眉間に皺を寄せていた。 「お前はどれがいい?」  ミカモトは片手で持ち、底部を腿で支えていたポインティングデバイスのローラーを回し質問に答えた。高速で顔写真が流れ、やがて止まる。ドモンは鼻を鳴らした。壁にはエメラルドの瞳をした快活げな少年が映っていた。父の趣味とは相反する子供特有の図太く無邪気な残酷さを帯びた笑みが印象的で、良くいえば庶民的で平凡、悪くいえば野暮ったい感じがあった。プロフィールを問えばミカモトはファイルを開いて機械音声のように読み上げた。帰化していない外国人で、聖飾名があり、保護された場所が貧民窟らしかった。ドモンはテーブルに両肘をつき、しばらく重ねた手の上で項垂れた。 「お前が戦うことになるかも知れない相手だからな。俺がそうしたように」  ミカモトはドモンの俯いたままの脳天を一瞥するだけだった。それから数分間2人は音も発さずにいたが、やがてドモンは手を打ち合わせ、決心したらしかった。彼は店を空けると言って私室を出ようとした。ミカモトもドアに歩いていく上質なスーツを目で追っていたが、突然彼女は胸ポケットからペンを引き抜くとドモンの前に出た。突き破られたドアを蹴り、ドモンから逸らす。構えたプラスチックが一瞬で砕かれ、至近距離に迫った刺客の脇に脚が入る。煙幕で正体は分からなかったが壁に肉感のあるものがぶつかる鈍い音がした。 「随分な歓迎だな」  ドモンは驚いたふうもなく銃を抜く。 「まって」  ミカモトは関係や立場も忘れてドモンを制した。鮮やかな壁に背を打ち動けなくなっていたのはレグナだった。 「亡霊が」 「まって、まって」  銃口を恐れることもなくミカモトは庇うようにレグナの前に立った。 「殺せ」  ミカモトは即座に首を振った。彼女は背伸びをして銃口を天井に向けた。ドモンはトリガーを引いた。耳を壊すような爆音が長いこと反響し、鼻まで炙るような匂いが漂った。天井には亀裂が入る。ミカモトは目を丸くして床を見下ろしていた。 「次見たら必ず殺せと言ったな」  白い銃に手が伸ばされる。ミカモトは銃口を自身に向けさせた。彼女はまだ目を丸くしながら怯えをみせていた。それでもおそるおそる深淵のような小さな穴へ額を当てる。 「ゴメンナサイ」  眉が下がる。ドモンは頭痛の如く脳内に釘を打たれるような感覚に陥った。何故ここに居るのかと、いつの間に連れてきてしまったのかと一瞬二瞬戸惑った。すぐに上がった目に動揺を悟られたような気がしてドモンは再びトリガーを引くことが出来なかった。いずれ大火と化すかも分からない火の粉を払えない危うい類の自尊心が許さなかった。 「座敷牢に放り込んでおけ。精々俺に殺されんようお()りでもしていろ。見習いから出直せ」  ミカモトは口を一度開いたが、隙だらけのドモンの肩を掴むと薙ぎ払った。抜き取った暗器を使われなくなったベッドに降りたもう1人の刺客に投げる。 「逃げたぞ」  廊下側の刺客が薄らいでいく煙幕に紛れ消えていく。ミカモトはドモンの冷めた呟きに余所見をした。彼女の投げた鉄杭が勢いよく帰ってきてその頬に傷を付ける。ベッドの上には肩の布地を染めた見覚えのある男が膝をついていた。横のミカモトを見ると相変わらずの無表情で頬に走った傷を撫でていた。ベッドの上の刺客は再びドモンに飛び掛かった。前に出ようとするミカモトを止めた。突き出された拳を撥ね、後退しながら躱し、軽い力で攻撃を()なす。刺客はしなやかな肉付きに手慣れた動きをしながらも軸がぶれ、今にも倒れそうで、最早踏み出す勢いのみで挑んでいる感じがあった。無謀な連撃によってドモンは壁に追い詰められ、顔面の横に入る殴打を受け止めると、手負いの獅子だけが持つ殺気立った弱者の威嚇を眼前にドモンは笑みを浮かべた。受け止めた腕を掴み、床に投げ落とす。色を濃くしている左肩に白く照りつける革靴を乗せた。ハシバミ色が見開いた。赤く染まった手でスラックスの裾を掴まれ質の良い生地が汚れた。 「懲罰房(あなぐら)に連れて行け」  ミカモトは身動きの取れない刺客を担ぎ、座敷牢の隣にある地下懲罰房に運んでいった。壁から生えた拘束具に留め、ドモンは首の据わらなくなった侵入者を眺めた。父主催のパーティーでも捕縛した者だった。あの時とは変わり、顔は青白く、唇は紫色になっていた。細い顎を掬いあげる。生気がなかったが明るいブラウンの瞳には強い憎悪が灯っていた。ドモンはいやらしく笑う。 「どういう用件だ。わざわざダクトから」  ハシバミ色に佇む瞳孔を射す。時折焦点が合わなくなり、彼は目が霞むのか不規則に目瞬いたり眇めたりした。ゴム手袋を嵌めて傷に触れた。この店の元上客は身を竦めた。赤黒い液体が膜に包まれた指を染める。刺客は歯を食い縛る。ドモンはミカモトへ(くつわ)を用意させた。 「2択で答えろ。父に用か?」  鉄杭を力任せに引き抜いて広がった創傷にドモンは容赦なく指を突き入れた。 「…っぅ、」  曇った息は何故か艶があった。後ろで控えているミカモトはまだ頬の傷をなぞった。 「顔を洗ってこい。傷を念入りに、な」  彼女は命じられるとほぼ無意識のうちに傷を撫でて懲罰房から出て行った。ドモンは肩の傷に指を入れたまま性技のように動かした。ハシバミ色に睨まれる。 「屈辱だな」 「…っぁ、…っ!」 「今は閨房のような心地だろう?」  指を突き入れると赤い液体が漏れ出た。生温かさは父の内部のようで、締め付けはないがよく潤み、抽送を促す。痛々しい水音は混じる媚息のせいか卑猥な感じがあった。 「誰を狙った?父か?」  元上客は父の好みの顔立ちを紅潮させ、しかし以前の強制投薬とは違い部分的で、青褪めた肌に差していた。指を中で曲げた。手の甲にまで赤い雫が流れていく。 「いつまで黙秘を続ける?薬が切れたら、ここは今のようにはいかないぞ」  抜き差しする速度を上げた。女の秘部を相手にしているような音がたつ。次々とゴム膜に赤い湧水が伝い、石畳に落ちていく。轡から唾液も落ちていく。ドモンはまだ答えない元客の生肉をさらに抉った。 「…っぅ、く、」  特殊な薬によって痛覚が快感に変換されている身体は激痛にも官能的な反応を示す。ドモンは指を抜いた。弱く赤い潮が噴く。彼はゴム手袋を一度捨てた。棚に立て掛けられた斧を手にする。ハシバミ色が焦った。 「そう怯えるな。腕を失くそうが足を失くそうが、今なら色事と変わらん。あまりの快楽に意識を飛ばすかも知れないがな」  掌で持ち手を弾ませ、重量感を確かめながらドモンは口の端を持ち上げる。まだ薬の効能は切れていないはずだったが刺客は息を荒くした。新しいゴム手袋を嵌め、何度かぱつぱつと鳴らしてみせた。斧を振りかぶる。 「もう一度訊く。目的は、父か?」  ハシバミ色は左腕の上に翳された刃物ばかり凝視し、話を聞いていない感じがあった。 「カキザキ!」  ドモンは振り返った。同時に爆発する。発砲した時の火薬臭さとは比べものにならないほど匂いが鼻腔を突き刺さす。爆煙と砂埃に視覚も利かず、ドモンは声のしたほうへ斧を投げる。小さな悲鳴が聞こえた。拘束具の軋む音もする。ミカモトも戻ってきたらしかった。雇主の無事を焦りのひとつも窺わせずに訊ねた。ドモンは小さい咳をして換気扇を回した。まだ拘束具の軋む音は止まない。鼻が曲がりそうな火薬臭さに顔を顰めながら落ち着いていく煙の中を泳ぐ。もう1人の襲撃犯はミカモトに捕まっていた。袖で口元を覆いながら彼は石畳に伏せられているレグナを見下ろす。斧はそのすぐ傍の壁に刺さっていた。暗殺の罪を赦した父の寵愛を一身に受けたくせ、裏切りを重ねるこの亡霊を紙一重のところでまた仕留め損ねていた。壁から斧を外す。今ならばミカモトが捕縛している。首を斬り落とせる。目が沁みているため、多少手元が狂うことはあるだろう。 「放せ、ヲミ…」  石畳に頭部を押し付けられている憎き淫売夫が言った。ミカモトは珍しいことに怯えて眼差しでドモンを仰ぐ。初めてこの女を見た時の光景が鮮明に蘇った。当時の父の気に入りだった床夫を求め勇みかかってきた。返り討ちにするのは簡単だった。その異質さに気付くと父は彼女を薬と洗脳で超人的で従順な側近兼護衛にしてしまった。この女がまだ平凡な襲撃犯に過ぎなかった時に、父に溢れんばかりの情愛を注がれた人形が、今ミカモトがしているような眼差しを向けたのを覚えている。もう見ることはない。よく躾け、絶対的な立場の上にいる。その性奴隷のことを長くは考えていられなかった。血の繋がりを感じた。それが父への想いを否定しているような気がしてもう見ていられなかった。嘆息して追い払う。 「情けなんか要らない!」  相手にするまでもなかった。一瞬の発作のような呻きがあった。ミカモトは気を失った襲撃犯を脇に抱えて煙の中に紛れていった。斧を手にしたまま壁に結ばれたほうの刺客に戻った。斧の柄尻で首の据わらず落ちた顎を拾う。白い顔に一筋汗が流れた。ドモンは再び鉄杭を取り出す。 「もう一度味わうか?」  薬が切れたらしいしなやかな身体に鉄杭を当てる。そのまま拳で叩けば肌を突き破ることもできたが、ハシバミ色は重そうに首を(もた)げドモンを見た。まだ意思の強い瞳に残酷な笑みを浮かべ、鉄杭から斧へ持ち替える。 「邪魔が入ったな。最後にもう一度訊く。本当にこれが最後だ」  斧をこれから振り下ろすことになり得る箇所へ傷付けない程度に軽く叩いた。 「片輪の床夫は買われない割りに、粗暴な客がつくものだ。店の質も下がる。俺としては五体満足でいてほしいものだ」  薄ゴムに覆われた指先で広げられた傷口を引っ掻いた。固まりかけていた血が堰を壊され溢れ出す。拘束具がうるさく鳴った。 「…っぅ、ぐァぁ…」 そこに先ほどの艶めいたものはなかった。ドモンは苦笑する。轡を剥ぎ取り、発言を自由にする。 「父を狙ったのか?」  すでに快感などない傷穴に指を突き入れる。まだ刺客は喋らなかった。ドモンは鼻を鳴らす。鉄杭は既に空いた穴を打ち、拷問はまだ終わりそうになかった。 ◇  ミカモトは仕事の合間を縫っては座敷牢に降りた。ドモンからは裏の廃棄場に捨ててくるよう言われていたが、管理人に苦言を呈され連れ帰ってきてしまった。手慣れた様子で黴臭く汚れた煎餅ベッドに眠る拷問被験者を世話した。懲罰房で最後に見かけたきり彼は目覚めなかった。処方された薬を2種類ほど飲ませ、コットン毛布から出ている潰れた左手に新しい保冷剤を当てた。過酷な拷問だったらしくまる1日眠っている。歓楽街の闇に屯する不成者でも音を上げる仕打ちに耐えるその精神力は一介の探偵ということを疑うほどだった。それでも肉体はやはりそこら辺を闊歩(かっぽ)する無頼漢や客を取るたび寝込んでしまう床夫と差して変わらず、激しい体力の消耗と怪我に熱は引かなかった。それは仕事終わりでも変わらず、汗を拭き、冷却シートと氷枕を替えミカモトは帰路に就いた。まっすぐ自宅アパートには帰らなかった。スレイブホテルに寄る。ここは彩虹花(ツァィホンフゥア) と提携した店だったがドモンの経営に変わってから買収された店舗のひとつだった。主に家を空ける際に奴隷が家財を持ち出すなどしないように預けたり、所有者同士の合意があれば奴隷の繁殖や養っていられなくなった奴隷の次の引取手を探すことなども請け負っていた。レグナはそこに預けられていた。目が痛くなるような真っ白い壁と床に家具はひとつもなく、同じく純白の天井には淡いピンクを帯びたミラーボールが回っていた。凹メニスカスレンズのような大窓の傍で手足を鎖で繋がれ、チップ付きの細い首輪を嵌めた彼が膝を抱いて座っていた。ミカモトが訪ねきていることも分かっているはずだったがレグナは拗ねたように視界を壊すようなスーパーホワイトの床ばかり眺め、彼女のほうを少しも見ない。友人の様子を告げ、日用品、食料を置いて帰っていく。スタッフに簡易ベッドを用意するよう頼むと10分も滞在しないでミカモトは自宅アパートに帰った。

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