10 / 12

第10話

 娼館に行く前にもスレイブホテルに寄り食料と、それから毛布を持ってきた。消灯しても青白く照り返す空間には新たに簡易ベッドが置かれていたがレグナは壁に頭と肩を預けて眠っていた。異様な雰囲気を醸すよくあるミラーボールもぴたりと止まっている。ミカモトは気配を殺して近付いた。少し痩せた気がした。共に生活するよりも寝食の自由はあったはずだった。その頃の食事といえば娼館の古い米で出来た粗悪な雑炊か電子レンジで温めた萬ストアの弁当か、もしくはファストフードばかりで開いている店も限られていた。ミカモトは暫く寝顔を見下ろし、毛布を開いて起こさないように慎重に、注意深く彼の身体に掛けた。しかし鎖が鳴り、毛布を握る手を掴まれる。頬を(はた)かれる。咄嗟の抵抗だったらしくレグナも驚いた表情をみせた。しかし彼女と知るや否やばつの悪げな顔をする。互いに言葉はなかった。ミカモトは頬に衝撃を携えたまま踵を返す。浅い眠りの邪魔をしたことは多少気が咎めたが、動く姿を見られたことはむしろ彼女にとって安堵をもたらした。預けた奴隷の様子を随時送信するサービスがあったがミカモトは使わなかった。ホテルスタッフに念を入れてレグナを頼み娼館に向かう。  カキザキはまだ眠ったままだった。上体をわずかに持ち上げゼリー飲料を薬と共に流し込む。彼は誤嚥することもなく胃に収めると再び安らかな寝息を立て、刻まれた眉間の皺も昨日と比べると緩んでみえた。汗は引いていたが熱はまだ少し高かった。明日目覚めなければ規定に従い投げ込み聖寺院裏の肥溜に捨てることになっている。歓楽街や貧民窟で出た死体や治る見込みのない傷病者はそこに捨てられる。この地は持たぬ人民を守ってくれはしなかった。開いた胸元や首、額を拭き、左手の包帯を巻き直す。ミカモトはふと地下に降りくる気配に気付いた。他の従業員やドモンとも違う。彼等ならば足音も気配も抑え、忍び込むようにやって来るはずがなかった。ミカモトは手の甲で自らの鼻と口を塞いだ。衣擦れも許さず、細心の注意を払いカキザキから手を離した。気配は近付いてくる。生唾を飲む音すらも相手に聞こえてしまう感じがした。この牢の前に人影が寄ってくる。相手は息を呑み、肩を跳ねさせた。レザースーツの女だった。その美しい顔には見覚えがある。前の雇主が主催したパーティーで見かけ、そして現雇主の自宅マンションでは言葉を交わしたこともある。彼女はミカモトを認めると胸を押さえて安心した様子をみせる。そして黒曜石のような透明感のある瞳はその傍のカキザキを眺めた。そこはかとなく眉や目蓋の感じが似ている気がした。ミカモトはその優れた容貌を観察していたが、彼女はカキザキを凪いだ眼差しで長いこと見澄ましていた。そのうちにまたひとつ地下に降りてくる足音があった。それは故意的で普段ならばミカモトの前では音も気配もなかった。革靴はすぐミカモトと秀麗な女の傍に来た。2人は婚約者だとミカモトは聞いていたが、この場に於いては親しさが微塵もみえなかった。 「ここに居たんですね。一言くだされば案内したのですが気が利かずすみません」  ドモンは自分の婚約者の美しい顔を覗き込むように訊ねた。商談の時のような作った声で、隣の女と並んでも霞まない美しい顔には彼らしい陰湿な笑みがある。 「言ったところでどうせここへは案内してくださらないでしょう?」  互いに笑ってはいたが、そこにはパーティーで時折目にする、目にしたまま聞いたまま受け取れない笑顔や言葉の応酬に似た違和感があった。 「アオに代わるバター犬、彼ならどうです?」 「タイプじゃないわ」  雇主の婚約者は即答した。 「アオよりタフです。その分、躾には苦労を要しますが」 「アオみたいな清純そうではしたない犬がいいわ」  ドモンは初めてミカモトの存在に気付いたらしかった。そしてまた陰険な微笑を強める。 「同胞(きょうだい)で交合うような…ですか」 「ええ、親子でも交合えるような」  しっとりした女の声が湿った地下に沁みていった。ドモンは突然発作的な下卑た笑いを起こし、一瞬静止したかと思うと隣の女を勢いよく殴った。真っ黒な髪が棚引いた。後頭部を格子に打ち付けたが、ドモンは倒れかける彼女の前髪を掴むともう一度殴打した。 「俺たち、血は繋がっていないんですよ。ご存知でしょう。ですからそんなふうに言われましても俺を侮辱したことにはなりません。見境もなく誘惑するアオのようなトイレと一緒にしないでください」  さらに格子に追い込まれた女を殴る。 「深い愛情を持って毎日(むつ)んでいるんです」  ドモンは婚約者を殴った拳をまだ脇に構えたまま牢の中を眺めた。(くら)い目がぼんやりとミカモトを見つめ、ただ無感情に口角を上げていた。女は格子に凭れながら崩れる。 「貴方にはそこの死に損ないを差し上げます。勿論、明日まで生きていればの話ですが」  意識のない青褪めた顔はあまり光の届かない場所で浮かび上がっていた。女は座ったまま怠そうに振り向いて格子に手を掛ける。至近距離から3度4度ほど顔面を殴打された唇は切れていた。よく濡れた麗かな眼はきつくカキザキを捉え、やがて縦横に編まれた材木を支えに立つ。 「出来損ないの堕ち(こぼ)れを面倒看るのはお好きでしょう」  革靴はミカモトを向き、彼女も雇主を仰いだ。 「若い健康な男の身体ですからね。溜まるものもすぐに溜まるでしょう。アオよりも若いと思われますから…とにかく胸の活きがいいんです。好きでしたでしょう、そこを甚振るのが」  ドモンに顎で指示されミカモトはまったく動かない病人に着せた洗い(ざら)しの襦袢ネグリジェの重ね合わさった襟を解いた。血の気の失せた肌とミカモトのあまり巻き方の上手くない包帯が露わになる。彼が解放された時、ミカモトの空けた左肩の傷の他に、左胸の端から右胸の端まで緩い角度を持って細い傷が入っていた。今は軟膏と包帯に覆われているが、これをドモンの婚約者はただでさえ丸みのある大きな目をさらに丸くして凝然と見ていた。 「若僧に興味はありませんのよ、わたし。小僧っ子を甚振っても何も面白くありません」 「どうぞ中へ入って、実際に試してみるといいです」  洗練された仕草で、プロムナードの帰りにパートナーを送迎車に乗せる時と同様に婚約者を座敷牢の中へ促した。そして彼女の動きも見ないうちに責任は果たしたとばかりにこの場から立ち去っていく。しかし彼の婚約者はまだ病人に気を取られ、やがて彼女は瑞々しい黒い瞳をミカモトに向けた。そして厚紙で作られた薬包紙を投げる。ミカモトはそれを受け取り、中身を開ける。カプセル錠が2つ入っていた。 「飲ませてやってくださいな。その人、普通の人間じゃないから」  真意を口に出さず問う。切れた唇が苦々しさを帯びて綻ぶ。 「その人、強化性奴隷(セクスレイブ)(いち)から出てきた人だから普通の薬効かないわ」  彼女はいくらかの苦笑を引き摺ったままそう説明した。この歓楽街に蔓延る(いち)よりも高額で品質のよい奴隷を扱っている市があることは聞いている。噂ではこの娼館の床夫よりも薬剤や電磁波によりよく躾られ、人生をただ所有者との性生活のためだけに与えられる、戸籍ナンバーもなく思考も自由も奪われた人間らしかった。その市自体はもう廃れている。何者かの反乱により解体された。強化性奴隷を生み出す研究所の爆破事件もニュースになったものだった。詳しいことは伏せられていたが、ある筋の情報によると首謀者は過激派人権団体らしい。ミカモトは女から目を離してカキザキを見下ろしてしまう。この青年は探偵と聞いていた。 「ある会社の催淫剤(ラブポワゾン)しか効かないようになっているの。よろしくね」  雇主の婚約者は小聡明(あざと)く小首を捻り、地上へ戻る。ミカモトはカプセル錠を摘んでかろうじて差し込む燈明のほうへ翳した。カプセルにも中の粉末の色にも見覚えがある。身体中を目を背けたくなるような瘡蓋や蚯蚓腫れに覆われる奇病に罹った床夫へ処方されたものと酷似していた。治療費も薬代もその医者は受け取らなかった。飲ませた後に瘡蓋や内出血に喘ぐ病人は寝静まり、やがて死亡した。  ミカモトはまた厚めの薬包紙にカプセル錠を包み直した。カキザキはまだ規則正しく寝息を立て、左手は四方を萬ストアで買った持ちの良くない保冷剤に囲われている。開いた襟元を直し、座敷牢を出た。 ◇  玄関で出迎えたアオに下半身を任せ、乾燥しがちな毛を撫でる。必死に口淫を施す顔を意味もなく見下ろし、房と房の間で絡みながらも毛先まで通った手を冷たい頬に添えた。切なげに眉が寄り、長い睫毛の奥で佳麗な目が上を向く。媚びに満ち、尻尾を振り、色目を使っている。 「この顔が憎たらしい」  冷たい頬を掌で摩った。美しい顔立ちと色素沈着の黒ずみのある肌を何往復かした。後頭部を掴んで奴隷の口腔を陰孔のように扱った。よく締まる喉奥を執拗に突く。性奴隷は抵抗しようとしまう自身の肉体を理性によって御した。ドモンはその目の前の健気(けなげ)な姿勢を知ることもなく口蓋垂を剛直で貫き、飼主の欲熱を咽喉内に散らした。一度大きな熱を解き放たなければ父に急いてしまい、ひとつひとつの情交が疎かになりそうだった。 「…ん、っんンッ…」  アオはドモンを潤んだ瞳で見上げ、視線を合わせたまま飼主の精を嚥下する。何度か喉を鳴らし、とろんとした双眸は欲の兆しをみせていた。しかしドモンは彼の脇を擦り抜け自室に向かう。たったひとつ婚約者と淫奴隷で狭苦しい自宅マンションに毎日空き時間を縫って帰宅するようになったのはすべて愛しい父のためだった。(かぐわ)しい豊満な肉体はベッドの真ん中で腹を掻き、(いびき)を轟かせながら眠っていた。跪拝(きはい)し、平たいライチとカットした桃へ接吻する。愛欲のまま起こすことは出来なかった。少し長く口付けるとリビングへ出た。アオは部屋の隅で身を縮め座っている。襦袢ローブの合わせ目から伸びた白い脚に不発に終わった劣望が再燃する。目を合わせると彼はまたどこか痛むのか眉を小さく動かした。戸惑ったような視線と白い肌にドモンは嗤った。手招きすると躊躇いながらアオはやって来る。力任せにソファーに押し倒し、襦袢ローブを開いた。奴隷はよく教育が行き届き、暴れたり嫌がったりすることもなかった。ただ最小限の受け身をとる。晒された内腿を撫でると欲はさらに膨らんだ。痩せたそこは滑らかではあるが摘んだり引っ張ったりするほどの肉はなく面白味に欠けた。しかし虚ろな目をしてやり過ごしていたはずの奴隷は真っ直ぐにドモンを見つめて離さなかった。同情と非難をその見透かすようで射抜くようなガラス玉に見出す。顔を掴み、薄い頬肉に爪を立てる。 「なんだその目は」  ローテーブルの下にハウスキーパーが片付け忘れたらしきハンディワイパーを見つけ、一度首を圧迫してから逃げないよう脅した。ワンタッチで先端部の使い捨てシートを捨て、膝を押さえる。 「褒美だ」  抵抗しない壺穴に丸みのある柄尻が突き刺さった。淫楽人形はただ顔を歪めても笑みを作って衝撃に耐える。 「ありがたき、幸せ…はぁぁう…っ!」 「貴様はこんなもので満足できて安上がりだな。この腐れ穴同様にな」  窄まりはプラスチックの持ち手を食んだ。円筒状の異物を渇望し、歓喜している。ドモンは要求に応じるどころが乱暴に抜き差しする。 「あ…っぁっんっ」  困惑した眉と伏せた目に主人は生唾を飲む。腰を上げさらなる快感を求め、淫妖な眼は水膜を張り飼主に釘付けになっている。ドモンはもう何も罵倒が浮かばなくなっていた。声も出せず、喉が渇く。発情に身が焦げそうだった。怒りだ。空いた手で喉を絞めた。ハンディワイパーから肉の抵抗が伝わる。 「は、ァん…っんっんっぁ、!」  腹側の人形の悦ぶポイントを意識的に柄尻で突いた。襞の凹凸まで手に伝わった。何百人もの性器を受け入れ何百人も精を浴びた熟れ肉はプラスチックであろうと楔肉と等しく奥へ誘い、引き絞る。まるで自涜するようにドモンは淫行として相応しくない器物を動かす。気付くとその目交いは鼻先が触れるほど縮まり、奴隷の熱い吐息が顔を掠める。それを塞ごとさらに前屈みになり、噛み締め過ぎて歪みの生じた薄い唇に触れそうになる。 「あっあっ…んぁっ!」  何から助けを求めるかの如く、ドモンは持ち手を弱い箇所へ擦り付けた。アオは圧迫する手から逃れるように首を反らし、自ら下肢を前後させ悦楽に浸る。全身を震わせ絶頂に溺れる性奴隷をドモンは冷めた頭で見下ろした。顔が溶け落ちそうなほど情けない面構えで腰を跳ねさせている。ドモンの下腹部では行き場のない熱情が駆け巡り、隠せないほど膨れていた。最高潮の快感でさらに濡れた目がドモンの隆起に気が付いた。ドモンはソファーに腰を下ろす。アオは床に降り、そこで本物の犬のように座した。恐る恐る主人の脚の間の膨らみへ手を伸ばす。遠慮がちな手首を飼主は握り潰さんばかりに掴み、ソファーへ引き上げる。 「手でしろ」  アオは小さく返事をした。飼主は疲労困憊といった様子で背凭れにすべてを預け、天井を眺めていた。硬い手が陰部に絡み付き、緩急をつけながら刺激した。ドモンは肩がぶつかるほど傍にいる奴隷を訳も分からず恐れ、瞑目するか天井を凝視するかして視界に一切、髪の一房も入れなかった。やがて射精感が高まり、奴隷の頭を掴むと顔に放精した。濃い雄汁が鼻梁から二手に分かれて滴る様は目を奪われるほどに美しかった。惚けた双眸は飼主を崇拝している。 「俺が好きか」 「はい」  アオは即答した。訊いた本人は鼻を鳴らし、前をしまうとソファーから腰を上げる。しかしその腕に重みを感じた。 「お慕いしております」  久々に聞いた感じのする声にドモンはその真剣な眼差しを受けてしまう。処理し切れない混乱で爆ぜ、彼は奴隷を払い落とした。 「触るな、醜業上がりの犬奴隷が」  まだ整然とせず、ドモンは声を荒げた。犬奴隷は身を竦め俯く。 「貴様なんぞに好かれて何になる。立場を弁えろ」  アオは震えた声で詫びた。飼主は苛立った様子でまた仕事に戻った。  ミカモトは仕事帰りに弁当や水、その他菓子を少し買ってスレイブホテルに寄った。落ち着かない強ホワイトに三方を囲まれ、ミラーボールが回っている。レグナは窓の外ばかり見てミカモトのほうをまったく向かなかった。弁当等を入れたビニール袋が音を立てた。淡いピンクのミラーボールが微かに軋みながら脳天気に回っている。面会を許さないレグナは雑草と切り崩された岩肌しか見えない窓から目を離さない。ミカモトは何の変哲もないところを見てとるとカキザキの容態を告げて帰路に就こうとした。 「待てよ」  見た目よりも低い声にミカモトは動きを止めた。 「アンタのこと…違うな。前のアンタのこと、カキザキから聞いてるんだ」  レグナはまだミカモトに背を向けていた。彼女は彼ともその亡兄とも話す時のように返事もせず相槌もうたなかった。 「アンタは、もう前のアンタとは別人も同然なんだってな。前のアンタは復讐のつもりでミモリに近付いた。それで、今のアンタはどうして、ミモリに服従するんだ?そうなるように、されているからって…」  品の良い猫のような目が振り返る。ミカモトはその宝石のような光を直視出来なかった。 「わからない…」 「ラグナのことは分かってるはずだろ?ラグナのことも忘れちまったのか?それともラグナはアンタにとって…ただの、床夫に過ぎなかったのか!」  ミカモトは何も返せなかった。誰に対しての怒りに似た感情はない。誰に怒りを抱き、どう怒っていいのかミカモトは分からなかった。兄がいるらしきこともまったく覚えがない。ただ犯されながら泣きじゃくる捨犬のような青年が瞬きと共に目の裏を過った。 「同胞が酷い目に遭わされたら、普通は仇のひとつやふたつ、討とうとするはずだ。現にアンタが今そうなってるのは床夫にされた兄を助け出したかったからだろ」 「かたきうち、せいさんせいない。せいさんせいないの、このしごととしてだめ。ひとりしんだら、さんにんひろってくる」 「生産性とか、そんな話はしてない。アンタの考えはどうなんだよ」  ミラーボールが真っ白い床に薄く鱗を泳がせている。レグナの声は聞き慣れ、いつまでも聴いていたいくらいだったが初めて会う人のような違和感を拭えなくなってしまう。 「かたきうち、みかもとのしごととちがう」  レグナは訝る眼差しをくれるだけだった。 「何も進めないぞ、このまま。自分を翻弄した輩に何にも出来ないまま、自分にすら負犬のレッテルを貼られるんだ」  彼は自嘲した。ミカモトはレグナがずっと眺めていた窓の奥へ視線を逃がす。 「ミモリがオレを殺せと言えば、アンタは平気でオレを殺すのか。そうやってラグナのことも?」  ミカモトはレグナのほうも見ずに首肯した。 「ずっと探してた。小さい頃感じてた温もりってものを夢でも幻でもないとずっと信じて、ずっと探して、あの店にオレそっくりなヤツがいると聞いたとき、やっとこの地で辿り着いたと思った。現実なんてこんなもんか…あんな臭くて汚い場所で、羽虫の入った雑炊啜って、日も当たらないところで、獣臭くなった寝床で死ぬまでモノみたいに扱われて…アンタに殺されて…?ラグナの人生、なんだったんだ…」  苦しげに喋るレグナへ一歩踏み出た。彼は自分を落ち着けようと大きく息を吐く。 「……帰ってくれ」  ミカモトは頷いて目の潰れそうな眩しい部屋を出た。遠地の姉妹店へ移送の手続きをとるとスレイブホテルを後にする。自宅アパートに帰り、ベッドに寄り掛かってぼんやりしていた。ラグナとの思い出が次々と現れては、それをしてはいけないことと感じて、浮かび上がる記憶を消し去ろうと必死になった。床に置いた手がまだ体温や感触を覚え、ミカモトは自分の反対の手で誤魔化した。夜中まで握られた指の根本を掻く。以前の生活は彼の手が大掛かりな指輪にでもなったように寝てから起きるまで、目が覚めても長いこと握られていたためか、自身の掌の肉感では違和感の上書きなど到底できなかった。背後で寝息が聞こえるような気がした。ミカモトは脚をフローリングに投げ出していたが、膝を抱いて顔を埋めた。頭の中は混沌としていたが、何気なく覚えていたこの家での故人の暮らしや些細な仕草、癖が生々しく幻覚としてすぐそこにあった。耳を塞ぎ、固く目蓋を閉ざしても親そうに呼ぶ気違いの青年が浮かぶばかりで逃げ場はなかった。他者から口にされる自分のことは取って付けた作り話にしか思えないほど身に覚えがなかったが、ラグナとのことは意外なほど鮮明だった。  明日、レグナは都市部にあるスレイブホテルに移送される。2号店ではあるがこの地の建物よりも規模が大きく、設備もしっかりしていた。最上階付近の部屋をとったため、景観もいいはずだ。半年契約で、様子をみて解放するつもりだった。部屋も一度だけ前雇主に連れられ視察に行ったことがあるが、このアパートより広く今閉じ込めている頭のおかしくなりそうな内装よりも格段に落ち着きがあった。パンフレットにも落ち着きのある内装と安全な設備として掲載されている。多少の息苦しさがあった。よく喋るレグナの声が耳に残っている。兄とは似ないところを見てやっと本当に別人であることが脳髄まで染み込んだ。ラグナは目の前で死んだというのに理解したつもりでまったくしていなかった。アロワナの水槽の前で、白い銃は煙を吹いた。あの時も気の狂った青年がいた気がする。彼は水槽を眺めていた。レグナは高級タワーマンションに合わないような破落戸に輪姦され、ミカモトは我を忘れて暴れ回った。殺人までには至らなかったがそれでもリビングは血の海で、ミカモトも傷を負った。恋人が手酷い扱いを受けても彼女の中には復讐心のひとつもなく、シャツを千切って汚れを拭き抱き上げて帰るつもりでいた。彼は謝りながらアロワナの水槽から射す鮮やかなライトに瞳を照らしていた。慰める(すべ)を知らないミカモトは子守唄を口遊(くちずさ)んだ。しかし暗器により脹脛を穿たれ、ミカモトは恋人を落としてしまう。恋人が涙を溢し、子守唄はまだ流れ続けた。這い寄ろうとするラグナは上体を起こし、ミカモトの後方に意識を奪われる。当時の雇主の息子の怒声とヒステリックな声が子守唄の奥で聞こえた。床を掻く手にミカモトは手を伸ばした。爆音に聴覚が壊れ、子守唄が止まる。

ともだちにシェアしよう!