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 昨夜、悟を憂鬱な気持ちにしていたダンスレッスンは順調に進んだ。 「ストップ。真木さん、振り付け違います」 「……すみません」  ただ一人、真木を除いて。 「一旦、休憩入れましょう。」  スタッフの声に振り付けの先生も頷いた。バラバラと皆がレッスン室から出て行ったり、仲のいい者同士で集まり出す。 「真木さん」 「要、どしたん? 今日、絶不調じゃん」  悟も真木の元に駆け寄ったが一足遅かった。さっき悟たちに声をかけてきた、真木と同期の先輩の方が早かった。 「ごめん、迷惑かけて。でも大丈夫だから」 「そう?」 「ちょっと、顔洗ってくるね」  穏やかな微笑みでシャットアウトされてしまうとそれ以上食い下がれない。悟は先輩と二人で顔を見合わせると、入り口に向かう真木の背中を見送るしかなかった。 「あいつ、なんかあったの?」  ――もしかして、俺が真木さんの相手役だって言ったから?  脳裏をよぎった可能性を伝えるべきか悩んだけれど、結局は「わかりません」と言うより他にない。 「お邪魔します」  大丈夫と言っただけあって、休憩後の真木はもうすっかり復活していた。キレのあるダンスで悟を含む後輩たちの心配を吹き飛ばし、今度こそ順調にレッスンは終了した。  そして宣言通り、真木は悟の部屋にやって来た。自分が発する「ただいま」以外の言葉を悟は久しぶりに自宅で聞いた。 「あ」 「え、なに?」  狭い部屋ですが。とか、散らかってますけど。だとかの気の利いた言葉で真木を迎え入れようと思ったが、悟の口から出たのはそのどちらでもなかった。 「すみません……、うちにお客さん来たのはじめてなんで、スリッパが……」 「なんだ、いいよ別に。って靴下で上がっちゃうの悟の方が気になるか」 「いや、俺は全然!」  ぶんぶんと左右に激しく首を振ると、真木がふふっと小さく笑った。 「じゃあ改めてお邪魔します」 「どうぞ」  さすがに他人が――それもただの他人ではなく憧れの先輩がいる前で、普段の帰宅時のルーティンをするわけにはいかない。けれど、そのまま部屋に入るのはどうにも落ち着かない。 「あの……手、洗って来てもいいですか」 「どうぞって俺が言うのも変か。ていうか俺も洗っていい?」 「もちろんです」  二人で並んで洗面台の前に立つ。男二人が並ぶには単身用のマンションの洗面台は窮屈だった。 「悟……」 「はい?」 「結構いい部屋に住んでるね?」  しかし真木の感想は違っていた。 「そうですかね?」 「うん、今の俺の部屋と似てる」  それはつまり真木の住んでいる部屋もいい部屋ということになる。当然か。真木の職業はただの声優ではなく、人気やベテランといった修飾語が付いている。同じ声優と言っても、悟の今現在の収入とは比べ物にならないだろう。 「サラリーマンだった時の貯金があるので」 「あー、そっか。なるほどね」  悟の経歴を知っている真木が頷いた。 「適当に座っててください」  言いながら冷蔵庫を開けて悟はまたしても「あ」と漏らした。 「すみません。飲み物、水しかなくて」 「お構いなく」  真木が家にやって来てはじめて、この部屋に自分以外の人間が来ることを想定していなかったと身に染みた。思えばサラリーマンだった時から、必要最低限の交友関係しか築いてこなかった。飲み会には三回に一回の頻度で出席するが、二次会には絶対に行かないし、誰かの家に行くことも招くこともない。 「うわっ、懐かしいなこれ!」 「なんですか?」  自分用のはちみつ大根シロップを入れたマグカップに、お湯を注いでいた手を止めて振り返る。 「『コルセアーズ』のフィギュア」 「それ、ゲーセンで取るのめちゃくちゃ苦労しました」  真木が眺めているフィギュアはクレーンゲームのプライズだった。 「うわー……ご愁傷さま」  真木が心の底から同情するように両手を合わせた。しかし発した声は言葉とは裏腹に弾んでいて、それが本心ではないことが明らかだ。 「このフィギュア、フリマアプリで五〇〇円」 「えっ⁉ 俺、その二十倍の値段でようやく取ったのに!」 「あはは。課金ありがとうございます」  口調と同じく軽快な足取りで、キッチン(と言うほど立派な造りではなかったが)にやって来た真木が「ていうかさー」と続けた。 「先輩にはペットボトルの水なのに、なんで自分だけマグカップ用意してんの」 「いや、これは人に出せるようなものじゃないので……」 「え、なにそれ」  謙遜のつもりが余計に好奇心を突いてしまったらしい。瞳を輝かせた真木がカップの中を覗き込む。 「はちみつ大根シロップです」 「うわあ、それも懐かしい」 「え?」 「昔、付き合ってた人がよく作ってくれてたの思い出した。喉にいいからって」  ちくり、とどこかが痛んだ。感覚は間違いなく自分のものなのに、痛んだのが体の外側なのか内側なのかもわからない。それなのにただ、痛い。 「ねえ、それまだ余ってる?」 「あ、はい」 「俺も飲みたいなー、久々に」 「じゃあ、これどうぞ」  自分用に作ったシロップのお湯割り入りのカップを真木に差し出す。その時にはもう痛みは消え去って、茫洋とした息苦しさに変わっていた。 「……まさかとは思うけど、マグカップも一つしかないってわけじゃないよね?」  悟からマグカップを受け取った真木の視線が、訝しむように細められる。スリッパがなかったことと、来客用の飲み物がないだけでこの言われよう。いや、前科二犯は十分な犯歴か。 「ありますよ。たくさん」 「なんでマグカップだけたくさんあんのさ」 「メーカーさんから事務所に届くじゃないですか」 「あー、なるほどね。それならうちにもたくさんあるわ」  キャラクターグッズの販売が決まるとサンプルと称して完成したグッズが関係各所に配られる。他の事務所がどうなのかは知らないが「フラットプラス」では、まずはじめに演者の手に渡ることになっている。真木のように演じるキャラクターが多くなるとサンプルを全て引き取るわけにもいかないだろうが、篠原曰く「まだ新人賞の資格あり」の悟は自分が関わった作品のサンプルはありがたく頂戴していた。そんな経緯で大量にあるマグカップの中から「はぴコネ」で悟がボイスを担当しているキャラクターがプリントされたカップを取り出すと、シロップとお湯を注いだ。 「いただきます」  ご丁寧に悟がソファに座るのを待ってから、真木がカップに口をつけた。真木に渡したカップは、普段使い用のシンプルなものなので派手な色使いのキャラクターは印刷されていない。 「ん、甘くておいしい」  悟からは生まれることのなかった感想に、どう返事をするべきか迷って結局、何も言わずにカップを傾けた。真木が微笑んで「そんでもって喉に良さそうな味してる」と言うと、悟にもそう思えてくるから不思議だった。 「じゃあ早速だけど、本題」  コト、と硬質な音を立てて真木がマグカップをテーブルに置いた。 「はっきり言うと、俺は悟にBLCDの出演を断ってもらいたい」  理不尽とも取れる真木の言葉に、けれど悟は驚かなかった。それどころか、やっぱり。と思った。 「自分でも理不尽なこと言ってるって思ってる」  そうですね。と軽く受け流すことも、真木さんになんて言われてもやりたいです。と突っ撥ねることも出来なかった。開けたところで何も出てこないとわかっているから、唇は省エネモードでピクリとも動かない。 「……階上悟って、本名?」  まさか二日続けて同じ質問をされるとは思わず、答える前に頷いてしまった。 「そっか……、だったらなおさら断ってほしい」 「どうしてですか?」 「悟のご両親は、悟の今の職業のこと知ってる?」 「はい」  両親との関係は良くも悪くもない。年に一度か二度、帰省して悟が近況を報告し、向こうは結婚をせっついてくる至って平凡でありきたりな関係だ。その平凡でありきたりこそが、良好な証だと言われたら否定はしないけれど。 「例えばご両親とか、親戚とか、元同僚が悟の名前をネットで検索した時に、経歴として今回のBLCDも当然出てくるようになる。聞こうと思えば、中身を聞くことだって出来る」  懇切丁寧に真木に説かれて、悟はようやく昨夜の小川の問いかけの真意に気付いた。 「悟も俺が出てるCD聞いてくれたならわかると思うけど、BLは結構……その、絡みのシーンが激しいから」 「それだけですか?」 「え?」 「真木さんが俺にBLCDの出演を断ってほしい理由って、それだけですか?」  言い難そうに、けれど悟のことを慮って打ち明けてくれた真木は優しい。 「俺はてっきり、BL現場の経験がないから真木さんの足引っ張るって思われてるんだろうなって」 「それは別に……誰だって一番最初は未経験だし」 「じゃあいくら真木さんの頼みでも無理です。断りません」 「あのね、悟。BLは確かに昔よりは格段に市民権を得たと思う。だけどやっぱりまだ……音声ものは特に、アダルトコンテンツだって思う人や、嫌悪感を示す人がいるのも事実だ」  そんなこと言われなくてもわかってる。だって他でもない悟がそうだった。真木の出演しているCDを聞くまでは。喉元まで出かかった言葉を、どうにか飲み下す。 「悟が俺のこと、慕ってくれてるのはよくわかってる。正直、最初は先輩に良い顔してるだけなのかなって思ってたけど」 「え、俺ってそんな風に思われてたんですか」 「うん。いや。でも待って、最後まで聞いて」  真木が一度は縦に振った首を、続けざまに緩く横に振った。大学生の頃、大して仲がいいわけでもない同じゼミの同級生に「チケットのノルマがあるから」と泣きつかれて、渋々行ったロックバンドのライブを場違いに思い出した。 「そりゃはじめはね、先輩だから気遣ってくれてるんだろうなって思ったよ。でも話してる内にそうじゃないなって、すぐにわかった」  あんまり熱心だったから。と、笑い交じりで呟いた真木の声がくすぐったい。 「しかも俺に憧れて、こんないい部屋に住めるくらいの高給取りだったのに声優になった。なんて言われたらそんなの、どうしたって嬉しいに決まってる」  悟はけして高給取りだったわけではなく、ただひたすらに労働基準法スレスレまで働いていただけなのだが、真木に最後まで聞いてと言われた手前、訂正できずに黙って続きを聞くしかなかった。 「で、その部屋に来たら今度は、俺が声当てた全然人気ないキャラのグッズがあって」 「えっ、全然人気ないって『コルセアーズ』のフレッドがですか」  黙って聞こうと決めたのに、うっかり口を挟んでしまった。どうしても聞き捨てならなかったのだから仕方ない。 「そうだよ。フリマアプリで五〇〇円だって言ったじゃん」 「てっきり、公開されてから時間が経ってるからだと……」 「人気キャラだったらもう手に入らないグッズは高値になるんだよ。それに篠原さんも言ってたでしょ。黒歴史って。あんまり評判良くなかったからさ、フレッドは」 「それは……見る目、じゃないか聞く耳? がなかったんじゃないんですかね。世間に」  真木にそこまで言われてはじめて、悟は自分が少数派なのかも知れないと思い至った。至ったが今さらそんなこと認められるか。こっちは人生変えられてるんだ。責任を取れ、とは言わないけれど、真木がそれだけの演技をしたことはわかってほしかった。 「……あははっ」 「なに笑ってるんですか」  照れ隠しを多分に含んだ悪態は、とげを生やす方向を間違えて自分にばかり刺さる。 「ごめんごめん、まさかそう来るとは思わなかった」  涙を流しそうな勢いでひとしきり笑って真木は満足したらしい。 「とにかく、それだけ好かれてたら俺だって悪い気はしない。悟が俺に憧れてくれてるように、俺にとっても悟はかわいい後輩なんだよ」 「そう思ってくれてるなら、どうして断れなんて言うんですか」 「BLが悪い仕事だって言ってるんじゃない。演技の幅も広がるし、下世話な話するとそっちがOKなんだったらって次の仕事にも繋がりやすいから」 「じゃあ」  食い下がる悟を、真木が視線で黙らせた。目は口ほどに物を言う。でも、それじゃあ納得できない。真木の言葉で、きちんと伝えてもらわないと。だって俺たちは、言葉を届ける仕事をしているんだから。 「BLに出たことで悟が誰かに傷付けられるかも知れない。俺はそれが……怖いんだよ」  ああ、この人はなんて正直で、優しくて、それから我儘なんだろう。 「真木さん。俺は、きちんと仕事として声優をやってるつもりです」 「……うん」 「年だって、もう二十九だし。この仕事を受けるメリット、デメリット。費用対効果のことがまるでわからないわけじゃありません」  うつむいて黙り込んでしまった真木に向かって「でもそんなことより」と重ねるのは、かわいい後輩失格だろうか。 「俺がやりたいんです。真木さんと、一緒に」  きっと真木の言う通り、心無い言葉をかけられたり、下世話な推測をされて傷付くこともあるんだろう。真木が言ったことは、あるいは真木自身が過去に経験したことなのかも知れない。  ――でも、それでも俺はイヤホンの向こう側で聞いてるだけじゃ満足できないから。  だから、声優になったんだ。忙しいけれど安定した収入が得られる仕事を捨てて、不安定で明日の仕事があるかどうかもわからないこの職業を、自分の意思で選んだ。  真木があの日、悟の日常に変化を与えてくれたように。 「俺だって、自分の声を聞いてくれた誰かに、ほんの一秒でもプラスの気持ちを届けたい」  それが大人気アニメでも、BLCDでも聞いてくれる人がいる限り、悟がやることは一つだ。 「だから俺に教えてもらえませんか。喘ぎ方と、えっちなリップ音の出し方」  出来る限りの努力をして、今やれる最高の演技をする。 「……っふ。せっかく良いこと言ってんのに、なんか締まらないんだよなー。そのお願い」  くっくっと肩を揺らしながら、うつむいていた真木が顔を上げる。 「でも、いいよ。教えてあげる。最高にえっちな声の出し方」 「…………っ」  吐息混じりの実演で、悟を圧倒した真木は「でも今日はもう遅いし、俺、明日朝十だから続きは明日でいい?」と軽やかに切り替えた。  すっかりぬるくなってしまったはちみつシロップを二人で揃って飲み干すと「おやすみなさい」と言って別れた。そう言えば「おやすみ」なんて、誰かと言い合ったのは何年ぶりだろうか。  そのおかげか、はたまた真木の手練手管を教わる約束を取り付けたおかげか、その晩はぐっすりと眠ることが出来た。

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