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「あれ、どうしたのこれ」  翌日。真木は宣言通り悟の部屋を再訪した。 「買いました」  出迎えた悟と、玄関で靴を脱ぐ真木の間には、ふさふさの毛がついたスリッパが一足。 「……もしかして俺のためにわざわざ買ったの?」 「はい」  「俺のために」をおそらくはあえて強調してきた真木に、つっこむべきか否かで悩んで結局頷いた。  丸一日オフだった悟は御用達のスーパーではなく、駅前の商業施設まで赴いた。そして普段は買わないコーヒーと紅茶、それからスリッパを買って来た。それらは全て来客用の生活用品だったけれど、悟の部屋を訪ねて来るのは今のところ真木しかいない。だから、真木のためにというのは逆説的に正解だった。 「いや、否定してくれないと俺が恥ずかしいんだけど」 「恥かかせてすみません」  悟は大真面目に謝ったのだが、「わかればよろしい」と軽く受け流されてしまった。 「せっかく用意してもらったから、ありがたく使わせていただきます」 「どうぞ」 「あ、ついでに手洗っていい?」  昨日の今日で早くも悟の部屋に馴染んだ真木が、スタスタと洗面所に消えて行った。自分のテリトリーに気安く踏み込まれるのは苦手なはずなのに、不思議と真木のことは気にならなかった。むしろ手がかからなくて楽だとさえ思った。 「真木さん、コーヒーと紅茶どっち飲みます?」 「え、まさかそれも買ったの?」 「はい。さすがに水しかないのは、人としてどうなんだって気付きました」 「俺、悟のお手製シロップ気に入ってたんだけどなー」  お世辞にしては気負いのない声音はベテラン声優の技なのか。それとも本音か。計り知れなかったが褒められた事実だけを受け取っておく。 「ありがとうございます」 「あ、そうだ! 紅茶にしてシロップを入れよう」  これで一石二鳥だー。俺、あったまいー。と真木は鼻歌混じりだ。 「ん、やっぱり美味しい」 「……ほんとだ。なんか飲みやすいかも」 「紅茶は喉にもいいからねー。一石二鳥、いや三鳥かな」  真木のやわらかな微笑みで、カップの底を透かした琥珀色は、悟の新たなルーティン昇格を決めた。 「喉も潤ったしはじめよっか」 「はい。お願いします」 「悟、キスシーンはやったことあるんだっけ?」 「いえ、仕事ではないです」 「まじで⁉ ゲーム系もなし?」 「脇で一回だけです」 「メインはいきなりCDかあ」  そういう時代なんだろうなあ。と、真木がしみじみと呟いた。 「じゃあリップ音もまるっきりはじめて?」 「養成所でやったきりですね。後は脇キャラで出た時に、先輩にコツ聞いたんで家で練習はしたんですけど……」  口で説明するよりも実演した方が早い。どっちにしろ使うのは口だけど。  手の甲に唇を当てると、出来るだけ音を立てるようにして吸い付く。けれど悟の唇からはカスッと空気が漏れたような音しか出ない。 「あー……」  真木が言葉を選んでいることが、ありありと伝わってくる。いっそ、下手だとはっきり言ってほしい。 「リアリティはあるかも知んない」  沈黙の果てに見繕ってくれた優しさが逆に辛かった。 「いや、下手ですよね」 「いやー……うん、まあ……上手くはない、かな」 「大丈夫です。自覚あるんで」  だからこそ、真木に教えを乞うたのだ。 「俺は指派なんだよね」 「……ゆびは?」  文字通りおうむ返しでクエスチョンマークを浮かべる悟に向かって、真木が自分の右手を掲げて見せた。緩く握ると人差し指の側面を唇全体に当たるように押し付ける。なるほど、指派か。  チュッと、真木の唇が少し湿り気を帯びた音を立てた。 「おお」 「手の甲だと範囲が広くて音が漏れちゃう気がする。あくまでも俺の場合は、だけど」  早速、悟も真木の真似をして自分の人差し指を唇に当てた。今度はチッと舌打ちのような音になってしまう。カスッよりは幾分かましだが、色気には程遠い。 「うーん……、あとは唇が乾いてんのかな」  首を傾げる真木に頷くのが早いか、悟は仕事用の鞄の中を探った。 「じゃあこれで」 「あ、それ。俺も同じの使ってる」  悟が取り出したリップクリームに、真木が屈託なく偶然を喜んだので、少しだけ唇が引き攣った。知っている。だって、現場で真木が使っているのを見て同じものを買ったのだ。  ――もしかして俺って……、ちょっとストーカーっぽい?  うっすらと自覚のあった事実を塗りつぶすように唇の上で何度もリップを往復させた。とにかく今はせっかく真木が教えてくれる技術を習得することが先決だ。  ベタベタになった唇で再度、自分の人差し指を吸った。 「あれ?」  接着面が多すぎて、なかなか離れない唇からは音らしい音がしなかった。 「塗りすぎだよ」  笑いながら真木がティッシュを何枚か引き抜いて渡してくれた。箱ごとじゃないところに真木の人間性がうかがえる。 「すみません」 「あのさあ、悟。ちょっと俺にキスしてみてくんない?」 「えっ」  不意を突かれて思わずティッシュを口に含んでしまった。 「あにっ、なに言って」  へばり付いた繊維のせいだけでなく舌が縺れる。 「悟が嫌だったら…………ううん、嫌でもやって」  はい。と、悟の唇の前に差し出されたのは真木の人差し指だった。そりゃそうだ。指じゃなきゃ困る……ってそれはつまり、指以外の可能性を一瞬でも考慮したと自白しているようなもので。 「悟?」  自分の思考でグルグルに縛り上げられていた悟の耳に、訝しむような真木の声が流れ込んできてハッとする。 「あのっ、俺はぜんっぜん! 嫌じゃないんですけど、真木さんは」 「俺も別に嫌じゃないし……て言うか教えてって頼まれた以上、嫌とか言ってらんないから」  平坦な真木の声が滑らかに悟の羞恥心を抉った。恥ずかしい。穴があったら入りたい。なくても掘って埋まりたい。埋まってそのまま冬を越したい。はちみつを舐めつつ。 「ん」  しょうもない勘違いの上からしょうもない質問を重ねて、取り返しのつかない自己嫌悪に陥っていた悟の唇に真木の人差し指が触れた。真正面から悟を見据える真木の目は、マイク前で見せる横顔と同じくプロのそれだった。その目に見つめられて悟は、埋まりかけていた平常心を必死で掘り起こした。  悟の唇よりも少し温度が低い真木の指先に、吸い付いて離れる。 「悟……、この期に及んで遠慮してるわけじゃないよね?」 「してません」 「ん、それならいいんだけど」  さっきまで悟の唇が触れていた指をぴしっと立てて「まず一つ目」と切り出した。 「唇の表面だけで音を出そうとしてる。これが一番大きいと思う」  それから二つ目、三つ目と並べるのに合わせて真木の中指と薬指が伸びる。真木の指摘はどれも心当たりのあるものばかりだった。 「んで、以上を踏まえて最後に実践」 「はい」  頷いて、人差し指を持ち上げる。 「今度は俺が悟にキスしていい?」  実践、と言うのでてっきり悟がやってみるのかと思ったが、どうやら真木が手本を見せてくれるらしい。 「お願いします」  真木の手がゆるやかに悟の手首を拘束した。押さえつけられた血管がドクドクと脈を打つ。悟の指先を真木の唇が食んだ。唾液で潤んだ唇に吸われて、真木の指の下で拍動が加速する。  ちゅう、とひときわ強く吸われると口唇の柔らかさとは対照的なエナメルの硬さが皮膚に食い込んだ。 「どう?」  真木の唇がみだらに潤んだ音を立てながら離れていく。うっすらと指先に残った唾液が、粘膜に包まれていた名残を惜しむようにゆっくりと冷めていく。 「あ……、すごく……えっち、です」  イヤホン越しじゃなく鼓膜を直接震わせるリップ音に、じわじわと足の先から得体の知れない熱がせり上がって来る。いや、得体が知れないと思い込みたいだけで、本当は。 「よかったー。少しは先輩として、いいとこ見せられた」  悟のふしだらな心当たりを、真木が破顔して散らしてくれた。 「俺もやってみます!」 「うん。あ、でもその前に汚れちゃったから手洗ってきなよ」 「あ、はい。そうですね」  真木に促されるまま洗面台に赴いて、ハッとした。  ――うわ、俺顔まっかじゃん……。  鏡の中にある見慣れたはずの自分の顔が、見慣れない血色の良さで更に血液を巡らせる悪循環。この顔を真木に晒していたのかと思うと居た堪れなくて、このまま帰りたいと無性に思った。帰るも何もここが悟の家だというのに。  ――とにかく手洗って、ついでに顔も洗って。落ち着け、俺。鎮まれ、俺。  自分自身に言い聞かせながら、露出している皮膚という皮膚に冷水を浴びせる。悟の表面が冷めれば冷めた分だけ、真木に触れられた箇所ばかりが発熱して、平静を取り戻すのに苦心した。 「悟ー? 時間かかってるけど大丈夫、ってなんでそんなに濡れてんの⁉」 「えっと……、ちょっと暑くて」 「真冬だけど⁉」  真木の当たり役である雨彦のように、キレのあるツッコミが冴え渡った。 「それよりもすみません、せっかく練習付き合ってもらってるのにお待たせして」 「それは大丈夫。ただ、そろそろタイムリミットかも知んない。帰って明日の準備しないと」 「すみません、遅くまで付き合ってもらって」  時計もなければスマホもリビングに置きっぱなしなので、今が何時なのかはわからないが真木の口振りから自分が引き留めてしまったことを察した。 「ううん、全然。予定合いそうなら、また練習付き合うし」 「お願いします! 俺も自主練しておきます」 「うん。台本上がって来たら、読み合わせもしよう」 「はい!」  勢いよく頷くのに合わせて前髪からぽたりと水滴が落ちた。 「もうそのまま風呂入っちゃいなよ」 「……そうします」  真木にくすりと笑われて、せっかく冷ました皮膚の温度がまた上がった。

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