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 意外にも悟が買って来たスリッパは、二日ないしは三日に一度、活躍を見せていた。真木を自宅に呼んだことを皮切りに、悟が急に社交的になった――ということではもちろんない。 「ねえ悟ー、これの続きどこにあるの?」 「それが最新刊です」 「うっそ、まじで? こんな気になるところで終わる?」 「今、本誌やばいですよ」 「まじか。バックナンバー買うわ」 「買わなくても大丈夫です。続きから本誌取ってあるんで」 「最高‼」  すっかり実家のように悟の部屋に馴染んでしまった真木が入り浸っていた。今日だって、ソファに深々と身を沈めながらシロップ入り紅茶片手に、悟が集めているコミックスを読み耽っている。 「やっぱ『ソケットスタート』勢いあるだけあって面白いわ」  真木が熱心に読んでいるのは、「霊殺奇譚」や「コルセアーズ」が掲載されている週刊少年誌で連載中のサッカー漫画だ。 「『ソケスタ』アニメやるかもって噂ありますよね」 「多分、編集部内ではほぼ決まってるだろうね」 「オーディションやってくれないかなー」 「全キャラじゃないにしても、メインどころ何役かはやるんじゃない?」 「あー、出たい」  しみじみと悟が漏らすと、真木がソファから身を起こした。 「俺も出たーい。ピカルくんやりたーい」  真木が名前を挙げた「ピカルくん」は「ソケスタ」の主人公だ。臆面もなく主役を演じたいと言った真木の瞳は、雑誌の対象年齢層である少年のようにキラキラと輝いて眩しい。 「悟は誰やりたい?」  これは声優としての資質を試されているんだろうか。と勘繰りたくなってしまうのは、悟に純粋さが不足しているせいなのか。 「俺は……」 「ピカルくん?」  言ってもいいものか。と迷う、悟の内心を見透かすように真木が問いかけた。この状況でもなお、キラキラと輝いている真木の瞳に悟は一体、どう映っているんだろう。そう意識した途端に、じわりと手のひらに汗が浮いた。 「悟?」  大人の野心と子どもの純粋さを併せ持った真木の瞳に覗き込まれて、ただ、嘘はつきたくないな。と思った。 「俺は……、俺もピカルくんやりたいです」  滲んだ汗の珠を潰すように、手のひらを握りしめる。 「いいね」  真木は一瞬、ただの大人の、三十一歳の顔でそう言った。なにが、とは聞けなかった。ただ、聞かなくてもわかるような気はした。 「そしたら俺と悟、同じ椅子を争うライバルじゃん。えー、めっちゃ熱い!」  真木はまた、漫画の展開に熱中する子どものようにはしゃいで見せた。でも、その表情はただの子どものそれとは少しだけ違っていて、三十一歳児という表現が一番しっくりくる。 「だったら俺が勝ちますね」 「は⁉ なんでさ」 「だって、下剋上が一番熱いですもん」 「何をー? 先輩の底力見せてやる! おととい来やがれ!」 「それじゃ噛ませの悪役ですよ」  もはや三十一歳児ですらなくなってしまった真木に軽口を叩くと、テーブルの上に積み上がっているCDの山に手を伸ばした。 「俺、しばらくこれ聞いてるんで」  これ、と言って悟が掲げたのはスーツ姿の男性が二人、電車と思しき背景の中で密着しているジャケットのCDだ。 「りょうかーい。俺も続き読んでいい?」 「どうぞ。本誌はクローゼットの中にあるんで勝手に出して読んでください」 「ありがとー」  週刊少年誌を押し込んでいるクローゼットを物色し始めた真木が、背中を向けたまま片手を挙げた。  はじめこそ真木は悟の絡み芝居の練習、という名目で悟の部屋を訪れていたが訪問する回数を重ねる度に、実際に二人で向かい合って練習する時間は短くなっていった。 『俺が教えられるのは技術的な面だけで、演技についてあーしろこーしろって口出すのは違うと思う』  三度目の練習の際に真木が言った通り、演技プランまで考えてもらうのであれば「階上悟」という名前の声優はこの世に必要ない。「真木要」の演技を別の声で演じているだけなら、真木の声を機械でいじればいいだけだ。 『でもなー、悟の家って居心地良いんだよねぇ。本上がるまで来れなくなるのは惜しい』 『別に来たらいいじゃないですか……遊びに』  友達、では厳密にはなかったが、家族以外の人間を自分の部屋に招くなんて大学生の時以来だ。誘い文句がぎこちなくて、声が上擦った。 『ほんと? じゃあお言葉に甘えて』  と軽やかに真木が応じて、こうして週に二、三回、真木が訪ねて来るようになった。手土産と称した勉強用のBLCDを片手に。  事務所にあるBLCDは「フラプラ」の所属声優が出演したものに限られているので、他事務所のライブラリー及び真木が勉強するために個人的に集めたというそれらを借りられるのは、悟としてもありがたかった。  真木がパラパラと雑誌のページをめくっている間、悟がBLCDを聞く。同じ空間にいるのに、各々が自分の好きなことをしている。この穏やかな時間が変わるとすれば、次は二人が一緒に出演するCDの台本が上がって来た時だろう。  悟のその予感は一方では当たっていて、しかし、もう一方では大きく外れた。

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