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『フラットプラスの小川です。階上くんに出演してもらうBLCDの台本が出来たので、事務所まで取りに来てください』  留守電に吹き込まれていた小川の声が、送話口の向こう側に相手がいないことを差し引いてもなお、暗い時点で嫌な予感がしていた。  ――なんだろうな。考えられるとすれば、俺が降板させられたくらい? 真木さんの名義で初BL! ってのが売りだから真木さんが外されるのは考えにくいし。でもそれだったら俺に台本引き取りに来てって言うかな?  悟が感じた嫌な予感を後押しする仮定ばかりが頭をよぎる。 「おはようございます」 「おはよー、階上くん。わざわざ来てもらってごめんねー」 「いえ」  悟がどれだけ考えを巡らせたところで答えが出るわけじゃない。効率重視の切り替え、と言えば聞こえのいい思考放棄で悟は小川の言葉を待った。 「……何かしら察してる?」  小川のその問いかけこそが、何かあると言っているのと同義だ。 「俺、外されましたか?」 「いや、階上くんじゃない」 「え……」  俺じゃない。ということはつまり。 「真木さんがメインから外れることになった」  言いながら小川が台本を差し出した。表紙に記載されているキャスティングでは、真木の名前が一番上に並んでいる。 「会議室、押さえてるんでどうぞ」 「ありがと、中山さん」  台本を受け取るつもりで持ち上げた悟の手はしかし、固く握られたままだった。悟の様子を見かねた中山が、横から小川に耳打ちしている。 「階上くん、ここじゃ話しにくいから」 「あ……、はい」  促されるままに会議室に場所を移しても、まだ働きの鈍った悟の頭は事態を把握しきれていない。そもそもする気があるのかどうか、自分でも疑わしい。 「本見てもらえばわかると思うけど、制作サイドは真木要名義での初BLってのを覆す気はさらさらなかった」 「じゃあ真木さんがやりたくないって言ったってことですか」  空っぽの頭は小川の話をすんなりと受け入れる。 「うーん……そこが微妙なとこなんだけど」  小川が困ったように、ガシガシと自分の頭を掻き混ぜた。ぱらりと、机の上に小川の黒髪が一本落ちた。 「これ、一番上に真木さんの名前あるよね」  髪の毛を払うついでのように小川が台本の一番上をトントンと指で叩く。 「つまりこのCDで真木さんは攻め役でキャスティングされてる」 「はあ」 「だけどどうやらリンプロさんは、真木さんが受け役だと思ってたらしいのね」  そう言えば悟も相手役が真木だということは聞いていたが、自分が受けなのか攻めなのかは聞いていなかった。 「うちは階上くん新人だし初めてのBLだから当然、階上くんが受けだろうと思ってたんだけど」 「そうなんですか?」 「うん。文字通り一般的には攻め役の方が演技上、リードしていかなきゃいけないから。攻めの方が受けよりも難しいって言われてる。決まりがあるわけじゃないけど、初めてBLに出る役者さんは受けに回ることの方が多いし」  そんな暗黙の共通認識があるとは知らなかった。 「で、リンプロさんとしては真木さんも表名義では初だから、受け役で出てほしかったんだって」 「あの、それなら自分が攻め役やればいいんじゃないですか」 「おっ、やる気マンマンだね~。僕、そういうの大好き。優先的に仕事回してあげたくなっちゃう」 「それは嬉しいですけど。それじゃダメってことなんですよね」  小川が話をはぐらかそうとしていることくらい、悟にもわかった。 「……真木さんのこと、リードできるの?」 「できます」  小川の問いかけに一瞬の間もなく頷いた。それは根拠のない安請け合いではなかった。真木と練習したあの時間が、悟の根拠であり自信だった。 「そっかあ……、でもごめんね。それは無理なんだよ」 「理由は?」  悟に実績がないから、というのであれば仕方がない。他事務所の先輩である真木と、個人的にしていた練習は悟にとっては有効打だが、非公式記録だと言われればそれまでだ。 「制作さんが階上くんには受け役で出てほしいって強く希望されてるから」 「え……」  小川の回答は悟が思ってもみないものだった。 「『はぴコネ』の階上くんの演技を先方さんがすごく気に入っててね。絶対、受けでやってほしいって言われた」  それは嬉しい。声優としてはこれ以上ないくらいの褒め言葉だ。自分の演技を気に入ってもらって、他の声も聞きたいと思ってもらえるなんて。でもそれは、つまり。 「真木さんと一つの椅子を争って、階上くんが勝ったってことになる」 「そんな……俺は、そんなつもり」  少しもなかった。いや、今だって微塵もない。声優は常にオーディションの連続だ。オーディションが仕事だと言っても過言じゃない。そんなことは悟も身に染みてわかっていた。一つの役を色んな人間が取り合っている。だからと言って自分が選ばれなかったその椅子に座った人間を、恨んだりしないことくらいよくわかっている。相手が真木なら、なおさらだ。でも、だけど。 「受け役じゃないってことで、真木さんは主役を降りる。代わりに五十嵐さんが相手役に決まった。うちとしては弊社の看板と若手のホープのBL作品だから、真木要の初BLと同じくらい好条件だ。断る理由がない」  小川の言葉は確かに聞こえているのにまるで頭に入ってこない。 「だけど、それが階上くんが断らない理由にはならない」 「え?」 「僕が一番最初にこの仕事を階上くんに持って来た時、相手役が真木さんだから。って条件できみに振った。でもその前提が崩れたんだ。契約違反だって言って断ることはできる」  どうする? と、問いかける小川の瞳はこの仕事を持ち掛けて来た時と同じだった。敏腕マネージャーの顔。言い換えればそれは、感情には左右されないビジネスライクな顔。 「……俺、ここ最近、真木さんにBLの演技、って言うかリップ音とか喘ぎ声とかのテクニック教わってたんです」 「え⁉ そうなの?」 「はい。それってつまり、真木さんからしてみれば敵に塩を送ってたってことですよね」 「敵、とまでは言わないだろうけど。階上くんにはそのつもりがなかったとしても、結果的にはそうなっちゃったね」  あくまでもマネージメントの一環として、小川は悟の話を聞いてくれている。それが悟にはありがたかった。過度に悟に肩入れするわけでもなければ、冷たく突き放すわけでもない。 「…………やります。相手が真木さんじゃなかったとしても」 「いいの?」 「はい」  はっきりと、意思を持って頷いた。 「真木さんとやってきたことを、なかったことにしたくないので」  真木は悟の決断を責めるだろうか。自分が真木の代わりに降りる、と言わなかったことを罵るだろうか――わからない。でも、ただ一つだけ確かなことは。 「わかりました。うちからは変更なしで先方さんに伝えておきます」 「お願いします」  真木のために用意したあのスリッパが使われる日はもう二度と来ないかも知れない。そう思うと心臓よりももっと奥、目には見えない自分の内側がぎゅうと絞られたようにただ、苦しい。

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