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『今日、会って話せませんか?』  数時間前、悟がメッセージアプリで真木に送ったメッセージには「既読」のアイコンが表示されている。  ――でも、返事がないってことは……。  十を過ぎたあたりで数えるのをやめたため息が、クッションに吸い込まれて音もなく消えて行く。  小川と話をつけて別れてから悟が取った行動は、二つだけだった。  真木にメッセージを送り、数えきれないほどのため息を吐いた。それだけだ。帰宅時のルーティンも録り溜めているアニメの消化もまるでする気にはなれない。  真木が相手役じゃなくてもBLCDには出る。そう決めたのは他ならない悟自身なのに、どうしても真木に会っていつもの柔らかな笑顔で「いいよ」と言ってもらわないと安心できなかった。 「我ながら自分勝手だよなあ……」  クッションが吸い込み切れなかった独り言が、むなしく一人だけの部屋に漏れたのと、部屋の中を埋めるじめっと湿った空気には似合わない、軽快な電子音がピンポンと響いたのは同時だった。  ――真木さんかな……いや、ないな。返事も来てないのに。  一瞬、頭の中をよぎった都合のいい推測を即座に否定する。ネット通販を頼んだ覚えもないので、新聞の勧誘か、信仰の押し付けだろう。そう当たりを付けて、何度か鳴り響くチャイムの音には無視を決め込む。けれど、チャイムの音は一向に引き下がる気配を見せなかった。 「あーっ! もうっ‼」  ぼふんと乱暴な(しかし布地なので勢いに反して間抜けな)音を立てて、クッションをソファの上に放り投げるとインターホンの受話器を取った。 「新聞も神様も間に合ってますんで‼」  受話器を持ち上げるや否や、相手の名乗りも聞かずに一方的に告げる。もしかしたらネット回線の乗り換えや、電気料金の見直しの方だったかも知れないな。と言い終わってから思った。いずれにしても今の悟には不要なものであることには間違いないが。 『…………憧れの先輩も、もう間に合ってる?』  大人しく引き下がっていったのかと錯覚するほど長い沈黙の後に、ぼそぼそと掠れた音声が届いた。 「真木さんっ⁉」  声に出すのが早いか、悟の人差し指は本能に忠実に開錠ボタンを押していた。 「まだ、憧れの先輩は間に合ってなかった?」  エントランスを通って、いつの間にやら見慣れてしまった部屋のドアに辿り着いた真木がもう一度、部屋前のインターホンを鳴らすことはなかった。 「なに言ってるんですか!」  真木が来るのを待ちきれなかった悟が、歓迎と呼ぶには荒い口調で出迎えたからだ。 「だって……、情けないじゃん」 「え?」 「俺がどれだけ言ったって、事務所の人間説得させられなかったんだから」 「説得って……?」  優しい真木の人柄をよく表しているいつもの口調とは程遠い、震えた声音に尋ねる悟の声も掠れた。 「俺は攻めでいいから悟と一緒に『風呂めいと』に出たいって言ったんだ」  玄関の三和土に立つ真木がうつむくと、上がり框(と呼べるほど立派なものではないささやかな段差)に立った悟と視線の高さが同じになる。 「でもマネージャーもデスクも、『真木要』の初出演BLは受けじゃないと認めないってそればっかりで……、俺が今までやってきた仕事ってなんだったんだろう」  弱々しい真木の声に涙が滲むのと、瞳が潤むのは同時だった。泣いている、あの真木が。ずっと悟の憧れの存在で、悟の人生まで変えたあの真木が。 「主役何本やったって、話題作に決まったって、意味ないんだよ」  うじうじぐずぐずと弱音を吐く真木に、そんなことないですよ。とか、真木さんはすごい声優です。だとかの、お優しい慰めの言葉を掛けるつもりだった。だったのだが。 「俺の演技なんて、所詮その程度なんだ……」  そう真木が呟いた瞬間に、それらの毒にも薬にもならない、あってもなくてもどっちでもいい言葉は悟の中から吹き飛んだ。 「そんなこと言う『真木要』なら間に合ってます」 「……へ?」 「さっきから黙って聞いてりゃ何なんですか。うじうじぐだぐだぐずぐずして」 「さ、悟……?」  突き放したように冷たい悟の口調に、呆気に取られた真木の目から涙は引っ込んでしまっていた。 「たかが俺ごときと共演できないからって、今までやってきた仕事は無意味だった? 所詮その程度の演技しか出来ない?」  はっ、と鼻で笑った吐息は今までに演じたどんなやられ役の雑魚キャラの台詞よりも、感情が籠っていたに違いない。今の声音を忘れずに、次に雑魚キャラ役が回って来たら生かせるように記憶しておこう。と、まだ冷静な部分が我ながら殊勝なプロ意識を覗かせた。 「俺の人生変えといて、ふざけたこと抜かさないでください!」  逆ギレだ、と言いながら思った。悟が恥を忍んで「コルセアーズ」の映画を観に行ったのも、サラリーマンを辞めて声優に転職したのも全て悟の責任だ。そんなことは百も承知だった。  でも、と思う。でも、だけど、そんな真木の演技が悟はやっぱり好きで。悟が大好きな真木の演技を所詮、なんて言ってほしくはなかった。 「……だったら俺も言わせてもらうけど」  逆ギレとわかっていながらも、言いたいことを言ってスッキリした悟がふう、と息を吐いたところで真木が低く唸った。 「俺だってお前に人生変えられてんだよ!」 「……へ?」  さっき真木が上げた間の抜けた声を、今度は悟が漏らす番だった。 「現場で顔合わす度きらっきらした目で真木さん、真木さんって寄って来て憧れてるだの、好きだの言われて、とどめにBLで俺の相手役になったってウキウキしながら報告されて。そんなのどうしたって嬉しいって思っちゃうだろっ!」 「はあ……」 「後輩は勉強熱心にBLCD聞いてたり、喘ぎとかキスの練習してんのに、俺は事務所の都合で受けじゃないなら主役降りるって……何様のつもりだよ」  それは真木のせいじゃない。思ったけれど、悟が言うまでもなく真木自身が理解しているのだろう。だからこそ事務所の決定を覆せない自分が不甲斐ないに違いない。それこそ後輩の前で涙を見せるくらいに。 「真木さん……」 「俺はね、悟。悟のはじめての相手になりたかった」  そこでようやく真木が視線を持ち上げた。同じ高さにあったって、交わることのなかった視線が正面からぶつかる。 「はじめてBLで絡んだ相手って、絶対忘れられないんだよね」 「真木さんも、そうなんですか?」 「うん。俺は五十嵐さんだった。五十嵐さんは普段から落ち着いてて、大人の男って感じの役が多いけどBLの時は特にそう思った」  スルスルと真木の口から語られる事務所の先輩とのエピソードは参考になるはずなのに、何故か悟の胸を乱した。 「いっぱいリードしてもらって、慣れない俺に大丈夫だよって言ってくれて、終わった頃には多分酸欠もあったと思うけど、なんかぼーっとしちゃって好きになりかけてたもん」  ズキリと一際強く心臓が飛び跳ねて不整脈を疑う。秋の健康診断では異常はなかったはずだが。 「……へえ」  応じた声が暗くならないように努めて、努めなければいけないほど打ちひしがれている自分に気付いた。 「だから俺は、そういう意味で悟のはじめての相手になりたかったんだよ」 「そういう意味って」 「忘れられたくないし、あわよくば錯覚でもいいから好きになってほしい」  まっすぐに悟に向かってきた真木の言葉を咀嚼しようとして噛みしめる。けれど、どれだけ頭の中で転がそうとも、その言葉を飲み下せそうにはなかった。 「言ったでしょ。俺だって悟に人生変えられたって」 「それは……」  聞いた。確かにこの耳で、間違いなく聞いた。 「悟に会う前だって、そりゃ仕事は真面目にやってきたよ。真剣に。でも、悟に会ってからはこの子に失望されたくない。かっこいいって思われたい。好きだって言われ続けるような演技がしたい。って、いつも心のどこかで思ってた」  さっき真木によって打ちのめされた脳が、鼓膜から伝った言葉を悟にとって都合よく変換しているのではないか。と疑った。夢かどうかを確かめる時は頬をつねるのがお約束だけれど、鼓膜と脳を結ぶシナプスの動作を確かめる時にはどうするのが正解なのだろうか。 「ずっと憧れの先輩でいたかったはずなのに、それだけじゃもう満足できない」  囁くように、けれど相反する力強さの籠った声に鼓膜がくすぐられる。くすぐったい、はずなのにそわそわとうなじを這うさざめきはよこしまな熱を孕んでいた。 「あのさあ、悟。ちょっと俺にキスしてみてくんない?」  はじめて悟が真木に秘密のレッスンをしてもらった時と、一字一句違わぬ台詞を真木が放つ。これがあの日からもう一度やり直すために用意された台本なのであれば、悟はここで驚いて見せなければならない。けれど、今この瞬間。二人の間には誰かが書いた台本は存在していない。 「はい」  悟が頷くと真木が自分の人差し指を持ち上げた。台本はないはずなのに、悟には何故か真木のその動作がいたく自然に感じられた。そのまま悟も流れるように真木の指に吸い付くと、上下の口唇で真木の指を食んだ。ねっとりと、唾液の絡んだ舌で乾いた真木の皮膚を濡らす。軽く歯を当てて、ちゅく、とはしたなく湿った音を立てて離した。 「……あーあ」  あからさまなため息をわざわざ声に出して真木が項垂れた。 「悟がリップ音下手なままだったら、プロデューサーに『あいつのリップ音、カスカスですよ』って告げ口して降板させられたのに」  そんなことをしたら、それこそ憧れの先輩の面目が丸つぶれだ。それを抜きにしたとしても、真木が本当に告げ口をするはずなどないことは、ずっと真木を見てきた悟にはわかっていた。 「じゃあ今度は真木さんが先輩の底力、見せてくださいよ」 「俺の方が上手かったらどうすんの?」 「その時は、自分から『やっぱり真木さんより上手に出来る自信ないです』って言って断ります」 「お? 言ったなー」  悟の挑発にもならない言葉に、真木の双眸がぎらりと光った。獰猛さを秘めた肉食獣のような眼差しに射すくめられた瞬間、「もしかして早まったかも知れない」と悟の中の弱気が顔を覗かせた。  そもそも、悟は正当にオーディションを行って真木から役を奪ったわけではない。真木に認めてほしいと、同じ側に立ちたいとは思ったけれど、思いの強さで実力が決まるのであれば、新人声優はみんなが主役になっている。  ――でもいまさら、やっぱりちょっと待ってください。なんてカッコ悪いことは言えないし。  躊躇いながらも悟が真木のしたのと同じように人差し指を持ち上げると、真木の手が悟の手首を掴まえた。巻き付いた手のひらが汗でしっとりと湿っていて、「ん?」と疑問を漏らすつもりだった悟の唇は、けれど予定を変更せざるを得なかった。 「んっ……」  真木の唇が触れるはずだった悟の指に、何故か自分の唇が触れている。そう、意識するのと、瞼を開けていたはずなのに視界が塞がっていると気付いたのは同時だった。玄関のダウンライトがほのかな明かりを灯していることは認識出来ているので、瞳を閉じたわけではない。ふ、と頬を撫でた熱い空気に、自分以外の生命のぬくもりを感じて全てに合点がいった。  悟の指を挟んだ向こう側、触れるか触れないかの位置に真木の唇がある。そのまま、どちらかが唇を進めれば触れ合える距離。それは、まだ辛うじて憧れの先輩と可愛い後輩でいられる距離そのものだった。  二人の間でわだかまる空気を押し退けて、その距離を越えて来てほしい。もっとこっちに。  けれど真木の唇はそのまま、何の音も立てずに離れていった。カスッよりもはるかにひどい。採点不能で選考外の演技をした真木本人は、離れて行った顔に笑みを浮かべている。 「……へたくそ」  率直に感想を述べる。求められていたのかは定かではなかったけれど。 「えー、ひどい」  言葉とは裏腹に真木の口角は上がったままだった。 「そんなキスしか出来ないんだったら、俺メインから降りませんから」 「いいよ、別に」  あっけらかんと真木が放り出した言葉は、少し前まで悟が言ってほしかった言葉に違いないのに、いざ本人の口から聞くと驚くほど味気ない。味気なさ過ぎて驚いた。 「でもリテイクはさせて」  どちらでも大差のない違いを悟が吟味していると真木の声が真剣味を帯びた。と同時に、声と同量か、それ以上の切実さを持った真木の顔が近付いてくる。人差し指は、持ち上げなかった。 「あ……」  躊躇いを滲ませた悟の声を奪って、真木の唇が直接触れた。先輩と後輩の距離を越えて来てくれた真木に、どう応じるのが正解なのか。わからなくてふらついた拍子に、足の裏がふわふわしたものを踏んだ。毛足の長いファーに足の裏をくすぐられても、カーテン一枚隔てた向こう側の出来事のように現実味がない。ただ、真木と触れ合っている唇の感触だけが鮮明で。ぼんやりとした意識がどこか他人事のように、まだこのスリッパにも活躍の場を与えられそうだと感じていた。  でも、それはきっと今夜じゃない。 「んっ……」  触れ合うだけの幼稚な接触だったけれど、息継ぎの仕方を間違えて鼻から声が漏れる。それがカットの合図だったかのように、真木の唇は離れていった。 「共演者に手を出すような人間は、憧れの先輩失格かな?」 「そんなの……俺だって」  もう可愛い後輩じゃ、満足できない。  声で伝える仕事をしているのに、舌がもつれて言葉が出てこない。性急な唇がドクドクと勤勉に働いている心臓にドヤされて、離れて行った真木の唇を追った。  あと数センチ、皮膚よりも先に互いの吐息が交わる距離で、けれど真木は悟の唇を指先で封じた。 「だめ。聞かせて、ちゃんと。悟の声で」 「……なんかそれって、ずるくないですか」 「なんでさ」 「真木さんはきちんと言ってないのに……」  ぶすくれて尖らせた悟の口唇が動くたび、真木の指先に触れる。 「言ったじゃん。もう憧れの先輩じゃ満足できないって」 「それは……、そうですけど」  核心に触れない迂遠な告白を、大人のやりとりと受け止めるにはまだ悟の年齢では早すぎる。具体的には二年ほど。その二歳の差に甘えて、悟は視線で真木を促した。 「好きだよ。悟のことが好き。可愛い後輩じゃ物足りない。喘ぎ声もキスの音も全部、誰にも聞かせたくない」  何の装飾もテクニックもない、けれど震えもなく力強い真木のはっきりとした素の声が、鼓膜から脳を伝って全身に行き渡る。ぐるぐると循環する血液の温度を上げ、悟の体のあちこちに熱を灯す。  ――すき、俺も。真木さんのことが好き。  声に出したら思いの一パーセントも伝わらなさそうで、じっと真木を見つめた。目は口ほどに物を言う。でも、それじゃあ納得できないと思っていたのは悟の方だったのに。いざとなると、声以外に頼ろうとしてしまう。そんなんじゃ、可愛い後輩だけじゃなく声優としても失格だ。 「お、俺も…………すき、です」  たっぷり時間をかけて、それなのに途切れ途切れでみっともなく震えた悟の声を真木は笑わなかった。マイク前に初めて立った、養成所に入りたてのほぼ素人でも、もう少し上手くやるだろう。 「はあ、まさかこの歳になってこんなにきちんと告白させられるとは思わなかった」  代わりに気の抜けた声で、やりとりそのものを茶化してきた。まるで恋愛に不慣れだと指摘されているようでムッとしたが、言い返せないのは図星だからだ。最後に誰かと正当な手順を踏んで交際をしたのは、記憶がたしかなら大学二年生の時が最後だ。 「今時小学生だって、好きだのなんだの言い合わないよ。いや小学生は言うか。中学生でギリ言わないかな?」 「悪かったですね、小学生並で」 「ばか、照れてるんだよ」  いがぐりの中の果実をくり抜いて、代わりに詰め込んだようにとげを纏った悟の言葉を、真木が滑らかに剥いてしまう。無防備になったはずなのに、外界の危険から守ってくれる殻がなくなった不安よりも、真木に直接触れてもらえる安堵の方が勝った。 「真木さんだって俺に言わせようとしたくせに」  根に持っているわけではないが、拗ねていることを隠さずに呟いた。百戦錬磨の手練手管、とは程遠いが声だけとは言え演技を生業としているので、少しだけ真木にいじわるしてみたくなった。 「だって俺、小学生レベルだもん」  けれどやはり、真木には敵わない。悪びれもなく言いながら、唇に触れていた指先が不埒に動いた。悟の口唇のあわいに、丸く揃えられた爪先を滑り込ませると、生々しい粘膜に爪を立てられた。さりさりと舌の先から中ほどまでを撫でる真木の指を、噛まないように大きく口を開ける。それでも真木の指が奥に進もうとすると、悟の歯に真木の指が触れてもどかしい。 「んっ……、く」  そうしてしばらくの間、真木の指先にされるがままになっていると、徐々に染み出してきた唾液が真木の皮膚をふやかし始める。耐えられず、嚥下しようとする舌を真木の爪先に押さえ込まれてたらり、と口の端から零れた。  それを見てようやく満足したらしい真木が、唾液の跡を舌先でゆっくりと掬いながらやっと悟の唇に触れた。溺れそうなくらい溢れた悟の唾液で舌を湿らせた真木が、唾液どころか口の中を全て浚ってしまいそうな勢いで、悟の内側を蹂躙した。ごくり、と二人揃ってどちらのものとも判別のつかないそれを飲み下す。 「……小学生はこんなことしないと思うんですけど」 「好きな子にはいじわるしたくなっちゃうタイプの三十一歳児なんですぅ」  どの口が……、と小憎たらしいけれどやっぱりそれ以上に、好きでたまらない真木の唇を今度は悟から塞いでやる。 「……っ、ん」  触れ合った鼻先を、悟が作るはちみつシロップのように甘い声に撫でられてハッとした。勢いで離れてしまった悟に、真木が「え、なに?」と困惑の色を隠さずに首を傾げた。 「あの……、その、真木さんって……」  口ごもる悟に真木が「なぁに」と、まだ甘さの残る舌で流し込む。 「受け……やりたい人ですか?」  先ほどまでとは打って変わって啄むような戯れの合間に、悟はどうにか問いかけを絞り出した。  そのまま落ちてこようとしていた真木の唇が、すんでのところでぴたりと止まった。  ――どうしよう、こんなことを言ってまた空気をぶち壊したと思われたら。でも、だけど、これだけははっきりさせておかなくちゃいけない。  悟自身、他人と致したのは件の大学二年生時の彼女が最新の履歴だった。挿れる方は九年ぶりだし、挿れられる方は未経験だ。どちらにしても同性でのセックスについて、悟の知識として備わっているのは、勉強のために散々聞いてきたBLCDの音声だけだった。まさか実体験で参照する日が来るとは思っても見なかったが。 「え……、まさか悟。今日、最後まで許してくれちゃうの?」  真顔で真木に問われて、一瞬で全身の血液が逆流したのを感じる。我先にと顔に集まろうとする血液たちを散らそうとして、ぶんぶんと頭を振った。 「ちが、違うんですっ!」 「うそ、そんなつもりなかったら聞かないでしょ?」  穏やかな疑問符は、問いかけの形を成していなかった。 「だ、って……」  あんな前戯を匂わせるような口淫を施されたら勘繰るなと言う方が無茶な話だ。  頭の中ではどうとでも自分を正当化するための言葉が湧いて出て来るのに、声帯はそれらのどれも拾い上げようとはしなかった。 「ごめん、またいじわるしちゃった」  もごもごと悟が口の中で言い訳未満の呻きを転がしていると、三十一歳児がただの悪い大人の声で悟の耳朶をくすぐった。 「う……」 「ごめんね、悟。悟が俺と、この先まで考えてくれたのすっごく嬉しい。大好き。優しくするからね」  悟の人生を狂わせた声で、次々と甘い言葉を差し込まれると鼓膜からトロトロに蕩けて、階上悟という人間の形を保っていられなくなりそうだった。 「やさしく、って」 「そりゃ俺は演技では攻め童貞ですけど? 悟の前ではいつだって、かっこいい真木さんでいたいもん」  真木はさらりと自分が抱く側であることを宣言したけれど、その割にさっき悟の鼻先を掠めた吐息は悟のそれよりも随分と可愛らしかったな。と余計なことを考える。きっと口に出したらこの三十一歳児は、ぷいとそっぽを向いてしまうか、もっと恥ずかしい言葉で悟をいじめようとしてくるだろうからわざわざ自分から進んで辱められる道を選びはしないが……、とりあえず今のところは。 「じゃあ、かっこいい真木さん、見せてください」  一番近くで。  言い終わる前に真木の半粘膜が悟に覆いかぶさる。  ちゅ、と唇が離れた時に生まれた音はどちらが立てたものなのか判別がつかなかった。

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