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起源1 残された者がみるのは甘い夢のみ

 標的はこちらに気づく素振りもない。  丸々と太った恰幅の良い腹を手で慈しむように撫でさすりながら脂にまみれた指を舐めている。男の前に並べられた皿にはこれでもかというほどこんもりと食い散らかした肉の骨が積み上がっている。毎日こんな食事を続けていたらそりゃ豚のように肥えるわけだ。  いくら食べても物足りないのか男はとりわけ大きな骨付き肉に手を伸ばす。両手で肉を抱え大口を開けてかぶりついた。両手がふさがり情けなく無防備な身体をさらけだしている。  ——今だ。  リシャールは身を隠していた陶器の像の陰から飛び出した。すかさず剣を抜くと剣先が蝋燭の明かりに反射してきらりと光った。 「なっ、貴様、何者だ!」  情けないことだ。まるで此方の気配すら感じ取れなかったらしい。  これでもかというほど目を見開いた男は恐怖に青ざめて小鹿のようにぷるぷると震えている。これがうら若き少女なら可愛げがあったというのに、残念ながら相手は隣国と内通することで文字通り私腹を肥やしでっぷりと太った男爵閣下である。同情の余地すらない。 「誰が差し向けた間者なんだ? 金目当てか、それならくれてやる。そうだ、いくらで雇われてるんだ? 雇い主の報酬の二倍、いや三倍だそう。それで手打ちだ」  怯えてとっくに腰を抜かしているはずなのに交渉しようとしてくるとは、さすが貴族様というところか。ヘドが出る。 「金など欲しくはない。俺が望むのは裏切り者の命、ただそれだけだ」  お前にくれてやる慈悲などない。  リシャールは微塵の躊躇もすることなく長剣を男爵の腹に突き立てた。先程まで恐怖にふるえていた瞳に絶望の色が浮かぶ。  飛び散る鮮血。すさまじい痛みに身を縮めてうめくことしかできない男爵はさながら豚にそっくりだ。 「貴様、なぜこの私を……」 「王に逆らう者に待つのは死のみ、お前もわかっていたことだろう」  リシャールは突き立てた刃を引き抜き、間髪入れずに男爵の喉をかき切った。どさりと倒れ込んだ公爵の死を確認する。  さて、今晩の仕事はこれにて終了だ。  身体についた血を洗い流すのは簡単だ。乾く前に水を浴びればすぐに落とせる。しかし厄介なのは髪についた血液だ。血のこびりついた髪の毛をいくら水ですすげども終わりが見えそうもない。仕事終わりはバスルームにこもって洗髪に苦戦するのが日常茶飯事になっていた。  リシャールの胸まで伸びた長髪はこの仕事に向いていないことこの上ない。もともと癖毛のせいでうねったり雨が降ればふくらんだりとひどく煩わしい。しかしこの鬱陶しい髪をいつまで経っても切れないのには訳がある。 「リシャール、仕事は済んだのか」 「父上、もう帰ってこられたんですか」 「ああ、今日は国王陛下の機嫌が良かったからな」  父、デュナン公爵は国王から絶大な信頼を得ており、なかなか自分の屋敷に戻ることはない。国王のまわりには打算と目先の利益を目当てに愛想を振りまいて近づく者ばかりだ。  その点、父上のように常に感情をおくびにも出さずただ側に仕える人間がもの珍しいのだろう。政治だけでなく喧嘩ばかりで女遊びの激しい放蕩息子ジュリアンに関する悩み相談までティリアン国王は父に頼りきりらしい。 「それで、ルノワール男爵は始末できたのか」 「ええ、ある程度苦痛を長引かせろと陛下が御所望でしたので少々手間取りましたが」 「苦痛を? ティリアンも趣味が悪い、自分に不利益を与えた人物には相応の代償が必要だなんてのたまいやがる。どうせ殺す人間を痛めつけたところで何か利があるわけでもないし、ただ余計に血が流れるだけだ。そのつけを払わされてるのは我々デュナンの人間だというのに」 「父上! 誰がきいているかわかりませんからそのような発言は……」  あたりを見回す。幸い使用人は近くにいないようだ。リシャールはほっと胸を撫で下ろした。  こんなところでティリアン王の批判をしていることが公に出でもしたら父上の長年の計画が台無しになってしまう。 「お前も先王の時代に生まれていれば、こんな殺し方はしなくて済んだのにな」  哀れみを帯びた口調で父上がリシャールの長髪に触れた。先刻まで湯浴みをしていたためまだわずかに濡れている。 「ブルネットの髪、お前の母上もこんな栗色をしていた。お前は幼かったから覚えていないだろうが、それはもう聡明で快活なひとだった」  髪を撫でる父上の視線はリシャールを通り越して今は亡き母上の幻影を見ているのだろうか。懐かしい思い出を振り返るような微笑を浮かべながらも父上の瞳は暗く翳っている。  それもそのはず。父がこよなく尊敬していた先王と母上は現在の国王、ティリアンに殺されたのだ。  今から遡ること四半世紀前、突然異国の男がやってきてあっという間に王を害してこの国を征服してしまった。王妃を守ろうとした母上も王妃もろとも征服軍に倒された。  妻を失い、主を失い、途方に暮れた父は彼らの後を追おうとした。それを止めたのはティリアンだ。先王の記録からデュナン家が代々王の密命を受けて秘密裏に暗殺役を担っていたことを知ったのだ。  力尽くで王座を手に入れたティリアンは、自らの地位もまたクーデターによって力尽くで奪われることを懸念していたのかもしれない。彼にとって早急に裏切り者を排除する技に長けたデュナンは失うには惜しい人材だったのだ。 「リシャール、私がこうして今もティリアンに仕えているのは先王陛下のために他ならない。いつか必ずあいつに報いてやるんだ」  いつの日かティリアン王を廃す、そう小さい頃からきかされて育った。妻と主を失った父に残された道はそれしかなかったのだ。ティリアン本人はもちろん、他の貴族や王の側近たちにも復讐を考えているなんて少しでも悟られてはいけない。だからこうして親子二代にわたってティリアンに忠実に仕えることを余儀なくされているのだった。 「王というのは悲しいものよ、近しい人間には裏切られ、心の休まることがない。だからこそ私は誰よりも誠実に仕えよう。そして来たるべき時がきたらティリアンを殺すのだ。心の底から信じていた人間に裏切られるほど堪えることはない。私はあいつに手を尽くしてでき得る限りの苛烈な死を与えるつもりだ、それが先王陛下とお前の母親への最上の弔いになるであろう」  あらぬ方向を見て高笑いする父上は、幼いころの記憶とはまるで違う。愛する人を立て続けに殺されて心が壊れてしまったのだ。それなのに後を追うことも許されず、復讐のためだけに生きている。  そんな父上の気持ちが少しでも安らぐのなら、母上の記憶を蘇らせて荒れてすさんだ心を凪ぐことができるのなら、髪なんていくらでも伸ばしてやる。  復讐、ただそれこそ自分にできる最大の親孝行。そして自分の一番の願い。この本願を遂げられるのならば、死神に魂を売り渡してもかまわない。

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