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起源5 迷子は闇夜に溶けていく
——此処は、どこだろう。
裏町のような薄暗く人気のない場所だ。闇夜を照らすのは月明かりのみで、あたりはしんと静まり返っている。
お世辞にも綺麗とは言い難い街なのに匂いがまるでしない。こういった場所は溝の匂いが充満し、野犬の遠吠えがきこえるはずなのにただ静けさだけが揺蕩っている。
寄るべなく歩きつづけていると、ふとショーウィンドウが目に入った。空っぽの店の中には人の気配がまるでしない。もっと近づこうと一歩踏み出したとき、窓ガラスに映った自分の姿に目をみはった。
鈍色の軍服、無造作につけられた数え切れないほどの勲章。しかしサーベルがあるべき場所には柄のみが刺さっているだけで武器の類は携帯していないようだ。
そして何よりも信じがたいのは、軍服に飛び散ったおびただしい量の血液である。漆黒の軍服ならば目立たなかったかもしれないが、微妙にグレーがかったこの軍服では血の赤は鮮やかなほど浮いて見えた。すでに乾いて薄茶けた古い血液もあれば、ついさっき付いたとしても不思議ではないほど真新しい血痕もある。無論、リシャール自身のものではない。そこから察するにすべて返り血なのだろう。しかし肝心の死体はどこにも転がっていない。さらに怪我人も見当たらないどころかネズミ1匹にすら鉢合わせないのだ。
第一、生まれてこのかた軍服など身につけたことはないのになぜ自分はこんな格好をしているのか。そして何よりも此処は一体どこなのか。
混乱のあまり頭の奥に疼痛が走る。
じりりと後ずさると、角を曲がる人影が目に入った。風になびくボロボロのマントがリシャールを誘っているようにも見える。
何かに導かれるようにマント姿の人物を追いかけた。しかし走れども走れどもマントの人影は遠ざかっていく。
なぜだ、なぜ俺から逃げるのだ。
ようやく彼が足を止めたのはリシャールの息も絶え絶えになったころだった。あたりは真っ暗なのに月がやけにまぶしい。マントの人物が振り返っても逆光のせいで顔はまったくわからず、男か女すらも判別できない。
「貴様は、一体だれなんだ。いや、まず此処はどこなんだ? 実は知らないうちに迷い込んでしまったらしいんだ」
リシャールの問いかけに答えは帰ってこない。再び静寂に包まれる。
沈黙に耐えきれずリシャールは肩を掴もうと手を伸ばした。しかしマントの布切れがぽろぽろと朽ちて地面に落ちるのみで、肝心の身体には触れることができない。
『——お前の望みはなんだ』
ひゅうっと吹き付ける風に思わず目を瞑った。目を開くと、月明かりに照らされてきらりと輝くものが見えた。目を凝らして見てみると、それはどうやら鎌の先端のようだった。
その持ち主がビュン、と鎌を振りかざす。
『ここに来たからには何か望みがあろう。たまにいるのだ、此方の世界に紛れ込むお前のような輩がな。その勲章を見るに相当人を殺めてきた猛者らしい。こちらの仕事が省けるのはいいが、少々数が多すぎではないかね』
——死神。
そんな言葉が思い浮かび、ひゅっと喉が鳴った。
『左様、死神と呼ぶ者もいる』
心の内が読めるのか。
さすれば今感じている得体の知れない恐怖も手をとるように理解されているに違いない。
『もう一度問おう、お前の望みはなんだ』
俺の望み、それは——
「復讐を遂げること、だ」
ティリアンを廃位させ、父上の心に永遠の平穏を取り戻すこと。それ以外に望むことなど何もない。
『ふむ。そんな願い、叶えてやるのは造作もないことだ。しかし人を呪わば穴二つ、お前にその代償を払う覚悟はあるのか』
代償? この魂を死神に売り払っても構わない。
父の悲願が達成されるならばこの身がどうなろうと知ったことか。
『それではその国王とその息子の命を奪えばいいのだな』
ひゅんっ、と鎌を振り回す死神はどこか楽しげだ。こうして迷い込んだ人間の願いを叶えるのが娯楽にでもなっているのだろうか。
「いや彼らはこの手で殺めたい。死神の手を借りたところでこの恨みは晴れないだろう」
『はて、それではわたしに何を望むのだ?』
すでに答えは決まっていた。
「————」
『……面白い。その願い、きき届けよう』
死神は薄ら笑いを浮かべたまま血塗れの刃を手渡してきた。血を浴びて錆びついているにもかかわらず、まだ濡れた真新しい血もこびりついている。
『この刃で自分の身を貫いてみよ、それが契約の証となろう』
契約の証、か。
リシャールは迷うことなく刃を自分の胸に突き立てた。激痛が走り流れ出る血が地面を濡らす。
苦痛に悶えるリシャールを死神は満面の笑みで眺めていた。
『だが忘れるな。代償はお前に永遠につきまとう』
薄れゆく意識のなかで、その声だけがこだましていた。
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