10 / 31
エジプト編2 地球の裏側でも同じこと
なんの呪縛もなく好き勝手に奔放に暮らしていた王太子様が、今じゃ俺の言いなりになっている。まったく逆の立場に生まれ変わるとはなんとも皮肉なものだ。
「ジャミル、そこの荷物、さっさと持っていってくれ」
俺が指さしたのは台座にとりつけられた女神の彫像だ。大きさも人間の女のほぼ実寸大で、もちろん重量もそれなりだ。到底ひとりでは持ち運べないことはわかりきっていた。
「どうした、お前のところの店が注文した品だろう? 早く持って帰らないと親父さんにどやされるぞ」
顎で出口を示すと、ジャミルは表情ひとつ変えないまま彫像に手をかける。しかし小柄な男一人の力ではびくともしない。それでも諦めることなく無理に抱えようとするので、ぐらりと彫像が傾いた。
あっと気づいた頃には彫像は倒れ、顔が粉々に砕け落ちていた。
「何やってるんだ、大事な商品だぞ!」
感情のままに叱り付けてもジャミルは顔色も変えず黙って自分が壊した彫像の破片を拾い集めていた。
ジャミルの姿を見るたび、憎しみの感情がふつふつと湧きあがり自分が自分でいられなくなる。その気持ちに任せて奴にきつく当たるのは、最初のほうこそ快感であった。かつて自分を虐げ踏みにじってきた相手を痛めつけるという愉悦は何事にも勝る。
だがいくら理不尽な要求をしようが、手酷く扱おうがジャミルは声を荒げるどころかただ黙って従っている。その瞳には生気がまるでない。
“ジュリアン” は一度だってこんな瞳をしたことはなかった。
無意識に “ジュリアン” のことを考えてしまい、その腹立たしさを紛らわせるように唇を噛む。
「……もういい。アリー、裏に置いてある別な彫像をこいつと納品してきてくれ。多少形は違っても女神の像なら文句はないだろう」
とんだ興醒めだ。
アリーが何か言いたげにこちらを見ているが気づいていない振りをする。彼には今まで何度もジャミルへの接し方を改めるべきだと説教されてきた。いくらなんでも酷すぎる、もっと優しくできないのか、と。
ジャミル以外にあんな理不尽な態度をとったことはない。だからこそアリーも疑問に思っているのだろう。
自分でもこの気持ちが一体なんなのか上手く説明することができない。頭では今の自分の境遇が “リシャール” とは違うことも、ジャミルが自分に危害を加えたわけではないこともわかっている。それでも奴を見ると自力では御せない負の感情が込み上げてくるのだ。
彼がジュリアンのように横暴で不遜ならこの気持ちも説明がつく。しかし目の前のジャミルは姿形は同じなはずなのに “ジュリアン” とはまるで違う。俺を睨みつけることもなく、恨み言ひとつ言わずただじっと時が過ぎるのを待っている。
お前が悪人ならもっと楽だったのにと、理不尽なことを承知でそう思わざるを得なかった。
あいつの顔を見るたびに感情を制御できなくなるのならもうジャミルと顔を合わせるのをやめよう、そう心に決めた。
会わなければもうあいつのことも、“ジュリアン” のことも考えずに済む。考えなければ頭の中が憎しみに占拠されることも、胸の内を焦がす怒りに暴れ出したくなることもない。
これで全てが解決すると、本気で思っていた。
だが、そうはならなかった。
真夜中ちかく、ずいぶんと長引いてしまった商談からの帰り道でのことだった。翌日が休みでなかったらどうするつもりだとぶつぶつ不平を漏らしながら歩いていると、路地裏になにやら黒い物体が転がっているのに気がついた。
最初は野犬でも死んでいるのかと思った。しかし近づいてよく見るとそうでないことがすぐにわかった。
立ち込める血と精液の匂いに顔をしかめる。
「——ジュリ……ジャミル」
ジャミルは裸も同然の格好で地面に投げ出されていた。土埃で汚れた身体には乾きかけた血液のあとが見えた。申し訳程度にぼろ布がかけられているが、手酷い乱暴を受けたのは火を見るよりも明らかだった。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
近づくな、引き返せ。
でも放っておくことはできなかった。なけなしの良心のためか、ただの気まぐれだったのかは自分にもわからない。
「立てるか」
声をかけても小さく呻き声をあげるだけで返事がない。どこか怪我しているのか。考える間もなく俺はジャミルを抱きかかえて家に連れ帰っていた。
ともだちにシェアしよう!