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エジプト編4 気づけば溺水、海の底 ◆

 はじめは酔狂な男だと思った。  この間まで親の敵かというほど目の仇にされて散々嫌がらせされてきた。早朝にたいしたことのない用事で呼び出されたり、無理難題を押し付けられたり、それで失敗したらこっ酷く叱られる。  でもリヤードは怒鳴ったり睨んだりするだけで直接殴ってくることもないし、焼けた火箸を腕に押し付けたり俺を縛って天井の梁から吊るしたりなんてことはしない。店じゃそれが日常茶飯事だったからどうも調子が狂う。俺をいたぶりたいなら店の人間と同じことをすればいいのに。  俺の母親はあの店で働く娼婦だったらしい。父親は客のだれかだ、母親自身にも子どもの父親はわからなかった。俺を産んだ母親は出産の肥立ちが悪くてすぐに死んでしまったらしく顔も覚えていない。  孤児になった俺をそのまま娼館に置いて育ててくれたのは店の親父さんだ。彼がいなきゃのたれ死んでいたんだから折檻くらいどうってことない。  十を過ぎたあたりから客をとらされ始めたのも母親と同じ仕事をしているだけだと納得していた。娼婦の子どもが娼館で育ったら、そこで働く人間として身体を売るのは当たり前だろう。  でもセックスはどうも好きになれなかった。服を脱がされ身体中至るところを触られ、最後に逸物を突っ込まれる。客が出したらそこで終わりだ。客だけ満足したらそれでいいと思っていたのに、あいつらは俺のも勃っていないと不機嫌になった。身勝手に動くくせに俺のが萎えていたら心が荒むそうだ。金で一晩身体を買うだけの関係でなに言ってるんだと呆れてしまう。  だから客たちはあの手この手で俺をその気にさせようと躍起になる。最中に首を絞められたり乳首を力任せにつままれたり俺のをぎゅっと握りしめながら扱いたり尿道に細い棒を突っ込まれたり、とにかく刺激が強そうなことはなんでもされた。最初は刺激が強ければ強いほど俺の意志とは関係なく身体は反応していった。  でもどんな刺激もいつか慣れる時がくる。次第にどんなことをされても感じなくなってしまった。身体は反応しても心がついていかず、ただ苦しいだけ。  そんな俺を客たちは疎ましがった。腹立たし紛れに客に尻に無花果を突っ込まれて帰られたときは取り出すのに苦労した。先の尖った部分が肉壁にめり込みながら下りてくる激痛は忘れられない。その日ばかりはちょっと涙も出た。  そんな訳だから酷くされるのは慣れている、そう思っていた。 「ジャミル、家にいろって言っただろう」 「でも何か手伝いたくて」 「人手は足りてる。それにそんな傷だらけで外を出歩かれちゃこっちが迷惑だ。早く帰れ」  こっそりリヤードの仕事場を訪れたらすぐに追い返された。傷だらけって言っても痣もほとんど消えたんだけどな。  あの日の朝、目が覚めたら俺の上には上着がかけられていて身体も綺麗に清められていた。早く店に帰らないとまた折檻されると慌てる俺を制したのはリヤードだった。 「お前は好きなように生きていい」  そう言って幾ばくかの金貨を手渡されてびっくりした。お金をもらうような真似はしてないと断るとリヤードは渋い顔をしていた。 「あんな店、帰ってもいいことないだろう」  よくよく問いただすと、リヤードはなんと親父さんに交渉して俺を身請けしてきたというのだ。もうこれで自由の身だと言われても実感がわかない。  第一、そんなことをしてもらう筋合いはない。  孤児だから行く場所もないし男娼以外に生きていく方法も知らないと突っぱねると、リヤードはそれなら方法がみつかるまでここにいればいいと言い出すのだ。  あたたかい食事、毎日の風呂、自分だけの寝床。すべてが初めてのことだらけだった。娼館にいたころは残飯にありつけたらいいほうで、客がつかなかった日は水すら与えられなかった。寝るのも地面に布を敷いた即席の寝床で、男と一緒じゃなきゃ寝台になんて乗れなかった。風呂も贅沢だからと身体を洗うのは数日おきで、それも濡らした布で身体をこすって風呂代わりと誤魔化していた。  それが今や食事も風呂も当たり前のように用意され、そのうえリヤードの同僚に代わる代わる読み書きまで教えてもらっている。少しでも役に立とうと洗濯や掃除を買ってでたらそんな暇があれば勉強しろとリヤードにどやされる始末だ。彼が言うには文字が書けたほうがいい仕事につけるとのことだったが、その癖自分の仕事場には俺を連れて行きやしない。矛盾している。  一度、リヤードの寝室に忍びこんだことがあった。寝ている彼の上にまたがってそっとリヤード自身に触れる。最初はやわらかかったのが撫でていくうちにどんどん熱をもって硬くなっていく。 「……やめろ、ジャミル」  あと少しというところでリヤードが起きてしまった。かまうことなく自分で服を脱ぐ。 「抱いてよ」 「早く降りろ」 「こんなに良くしてもらってるのに俺にはこれしかできないから。リヤードだって男が無理ってわけでもないんだろう」  つつ、とリヤードのそこを指でなぞるとぴくりと反応がかえってくる。こんなに優しくされて何も恩返しできない自分が腹立たしくもどかしかった。自分にできるリヤードの喜びそうなことはこれしか考えられない。 「だから止めろって言ってるだろう」  嫌がるのに構わず手を止めない俺をリヤードが突き飛ばした。 「なんで? 俺の身体、そんなに汚い?」 「そういうことじゃない」 「じゃあどうして? 気持ちよくしてあげるから、リヤードはそこで寝てるだけでいい」 「……違うんだ、俺はそんなことがしたくてお前を身請けしたわけじゃない」  とにかく出て行ってくれと無理やり部屋から追い出された。バタンと閉められる扉の前に立ち尽くす。  仕事もできない、リヤードを満足させてもやれない。じゃあ俺はどうやって彼に報いればいいんだ。  とぼとぼと部屋に戻ってから自分に与えられた部屋を見渡す。派手な装飾品はないが、よく手入れされて掃除の行き届いた場所だ。男娼上がりに住まわせるようなところではない。  自分が情けなくなってくる。こんなにいい生活をさせてもらっておいて自分はリヤードに何もしてやれない。ひどく拒絶されてしまった、あの反応は本気だった。  ふと自分の身体を見る。リヤードの適切な手当てのおかげで痕も残らず綺麗に怪我も治りつつある。——そしてゆるく持ち上がった自分自身。そういえば最初にリヤードにしてもらってから一度も抜いていない。  さっきまでリヤードにしていたように自分の欲望に手を這わせながら後ろにも手を伸ばした。娼館では毎日のように使っていたのに最近は用無しだったせいで少し固くなっている。これじゃ次に客をとるときに痛いだろうなと考えてから、もう自分は男娼ではないことを思い出す。  つぷりと指を挿し入れると難なく飲み込んでいった。二本目は少々きついが無理をしてでもねじ込んだ。ゆるゆると中をさすりながら少し突起した部分にちょんと触れる。ピリピリとした快感が背中を駆け巡った。  熱い吐息が漏れる。後ろを弄りながら前を扱きあげる手も止めない。痛いくらいにきつく握りしめて上下に動かすが快感は拾えども絶頂には足りない。客としているときもこんな感じだった。どんなに強く性器を弄られても最後まではイけない。達してしまえたほうが楽だとわかっているのに身体が言うことをきかず、焦れば焦るほど萎えていく。気持ちとは裏腹に俺のそこは痛いぐらいに張り詰めてしまっているのにどうしても絶頂にはたどり着けないのだ。  ああ、もしこの手がリヤードのだったら。  俺を介抱しながら自分に触れてきたリヤードのことを思い出す。リヤードはこんなふうに乱暴に中を触ったりはしなかった。あれは中に出された精液を掻き出すためだったからもっと優しくてもっと機械的だった。ただ指を入れて出口に向かって動かすという単調な動きのなかで、時折悦いところに当たってふるりと腰が震えた。そうそう、こんなふうに。チリチリとした快感が腹の中で蠢いているのになかなか肝心なところには触れられずもどかしい思いをした。  初めて自分自身に触れられたときは電流が身体に流れたかと思うほどの衝撃だった。全身が痺れてリヤードに触られているところの感覚だけが鋭く尖っていく。根元から先端にかけてゆっくり扱きあげられ、その運動に挟まれて先端を引っ掻かれると思わず声が漏れそうだった。 「……んぁ、リヤードぉ…………」  そこにはいない名前を呼ぶと背徳感で背筋が震えた。  あの日は指での刺激ではどうしても達せなくて結局口でしてもらったんだった。あんなことをしてもらうのは初めてだった。自分は客から強要されることはあったし客が多すぎて後ろが腫れて使い物にならなくなったときはすすんで咥えたりもした。でも客たちは俺のそこを掴んだり握ったりはしても汚いからといって舐められたことなんて一度もなかった。  リヤードの口の中に入るとその温かい粘膜の感触に頭が真っ白になった。ぬるりと唾液を絡めて舐めあげられたときなんて目がちかちかして火花が散ったくらいだ。指を自分の唾液で濡らし、リヤードの舌を思い出しながら根元から先端にかけてなぞりあげる。まだ足りない。もっと、もっと。さらなる高みを目指してリヤードを反芻しながら鈴口をぐりぐりと弄ると耐えきれないほどの快感がこみ上げた。  ばたたた、と滴り落ちる男の欲望。一瞬で消え去る快感の余韻。こんなに想ってもリヤードはここにはいないのだ。家の主人のことを考えながら淫らに身体を弄りまわす自分の姿は俯瞰するとひどく滑稽だったことだろう。 「リヤード……」  呼び掛けてももちろん返事は帰ってこない。一人きりだ。こんなに彼を想っているのに、彼を考えるとこんなにも胸が高鳴り、身体が熱くなるのに。  こんな気持ちは初めてだ。 「すきだ」  ひとりでにこぼれ落ちた本音は闇夜に溶けていった。

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