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エジプト編6 砂時計を再び傾ける

 優しくしてやりたかったのに計算が狂った。  力尽きてぐっすりと眠りこけるジャミルの赤い髪をそっと撫でる。出逢ったころはこの赤毛が目につくたびに厭わしく感じたものだったが今ではそれほどの感情は湧いてこない。  ジャミルに対して酷いことしかしてこなかったのに俺が好きだなんて、おかしな奴め。  もしもこいつが男娼としてでなく、級友として学校で出逢っていたら案外いい友達になっていたかもしれないな、なんて柄にもなく思う。  生意気そうな顔をみていたら悪戯心がむくむくと湧いてきて、きゅっと鼻をつまんでやる。ふがふがと息を荒くするが一向に起きる気配はない。どこか獣じみたところがある。  そういえば最中にキスをねだられたのに唇にはしてやらなかったな。  どうしてそんな魔がさしたのかわからない。気づいたらジャミルの唇にそっと口づけていた。  すると先程まで深い眠りについていたはずなのにジャミルの目がはっと開いた。戸惑ったように身体が震え、瞳孔が開き、唇がわななく。  突然の変化に身体が硬直した。わけもわからずジャミルの震える肩をつかもうと手を伸ばすと力強く払いのけられる。 「……リシャール?」  ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような気がした。  “リシャール” なぜジャミルがこの名前を知っているんだ。 「おいジャミル、一体どうしたっていうんだよ」 「ジャミル? ……いや、俺は“ジュリアン”だ」  “ジュリアン” もう二度ときくことはないと思っていた名前だ。ああ、やはりお前は——  さっきのキス、あれがジュリアンの記憶を呼び戻すトリガーの役目を果たしていたに違いなかった。 「お前が俺を殺したのか」  すべての記憶が今蘇ってしまった。俺がジュリアンを殺した事実も、どんな思いで彼に近づいたのかも、余すことなく何もかも。  ジャミルの豹変ぶりは凄まじかった。怒りにうち震え、唇は言葉にならない声を紡いでいる。 「信じていた……信じていたのに、お前は!」  ジャミルが握った拳を力任せに寝台の脇の鏡台に叩きつけた。飛び散る破片、ジャミルの拳にもそのかけらが突き刺さって血を滴らせている。 「今度は俺の番だ、リシャール」  ジャミルが散らばった鏡の破片を握りしめる。  耳の奥で血液がごうごうと音を立てて流れるのを感じた。視線はジャミルの瞳から離すことができない。狂気、憎悪、そして殺意。この世に蔓延る負の感情を一身に集めたようにも見えた。  一瞬、時が止まったように思えた。  飛び散る鮮血、赤い絵の具をぶちまけたときみたいだ。  熱い、喉が焼けつくように熱い。そこでようやく自分がジャミルに鏡の破片で喉を切り裂かれたことを理解した。視界が赤く染まる。ジャミルの顔も返り血で濡れていた。  はやく拭わないと湯浴みが面倒だ、なぜかそんなことを頭の片隅では考えていた。  これが俺に下された罰なのだろうか。父上の宿敵に少しでも心を許してしまった、その落ち度の結果なのだろうか。  ぐらり、と視界が揺れた。  地面に倒れ込んだのだろう、全身の力が抜けていくのがわかる。起き上がろうにも身体が鉛のように重く言うことをきかない。  復讐を誓った相手にほんの僅かでもほだされた俺が馬鹿だったのだ。目の前の憎むべき男に殴りかかってやりたいが、もはやそれも叶わない。目がかすんで世界がぼやけ、だんだん気が遠くなっていく。  ——次こそは、必ずお前を……  『次』? 人は死んだらそこで終わりだ。次はない。  死の間際に次のことを考えるなんて、俺はもうとっくに永遠の煉獄の住人と成り果ててしまったのだろうか。  だがそれでもいい。次こそは必ず、お前の首を父上に捧げてやろうじゃないか。

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