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フランス編1 すでに賽は投げられた

 クローゼットのなかにしまわれた保安委員の制服がまるで自分の抜け殻のようだった。  これを身に纏っていないとき、自分は別の人間にならねばならない。幾度となく袖を通した制服が抜け殻だとしたら、脱皮と一緒に自分の感情の一部も身体から引き剥がされてしまったのだろうな。  革命が勃発したのが今から4年前のことだ。民主主義を掲げ、長年フランスを蝕んできた王権を打倒した。すべての民衆が自由かつ法のもとに平等で、そして友愛に満ちた理想の国家だ。ロペスピエール閣下の理想はこの国を導いてくれる。  ルイ16世の処刑が決まったときは武者震いがした。『人は罪なくして王たりえない』まったくその通りである。ティリアンの為政は俺、いや “リシャール” や父上のような犠牲のもとで成り立っていた。  それにも関わらず国王はその犠牲の上に胡座をかいてあたかも自分の手柄であるような顔をする。国王は国王であるという大義を掲げているからこそ人権を踏みにじるような行為ができるのだ。人はみな平等なはず、国王が国王であること自体が罪である。なんとも筋の通った理屈じゃないか。  自分の喉元に手をやる。輪廻を経て違う身体に生まれ変わったはずなのに “ジャミル” に切り裂かれた傷が疼くような気がする。  リシャールとしてジュリアンに復讐を遂げた年齢も、リヤードとしてジャミルに出逢ったときの年齢もいつしか超えてしまった。  しかし未だに俺はあいつを見つけ出せないでいる。貴族や王党派が次々と処刑される血なまぐさい時代だ。もしもあいつがまた貴族としてこの世に生を受けていたとしたら既に処刑された後かもしれない。  そうなればこの行き場のない憎悪はどこへ向かっていくのだろう。彼が革命を生き抜き、俺の寿命が尽きる前に奴を探し出せることをただ祈ることしかできない。  中心街の外れにあるコーヒーハウス、ここが俺の現在の仕事場、もとい監察対象である。  公安委員の仕事は多岐に渡るが、俺は委員のなかでも秘密裏に民衆の生活に溶けこんで反革命主義者や逃げ遂せた貴族を告発するという役割を担っている。いわゆるスパイ業務だ。案外この仕事が性に合っているようで告発件数は仲間内でも随一を誇っている。  しかしこのコーヒーハウスでウェイターとして働き始めてもう数日が経つが、未だに反革命の動きはない。客や店のマスターにもそれとなく探りをいれてみても怪しい点が見当たらない。無駄足だったか、と臍を噛む。何もみつからなかったと上に報告すれば酷く叱責されるのは間違いない。そんな未来を想像すればするそど暗鬱とした気持ちになる。  潜入して間もないが早く見切りをつけて次の対象に切り替えたほうが失敗の傷口も浅いだろう。今日の業務が終わったあたりにでもマスターに退職を願い出てみるべきか。 「おや、いらっしゃい」 「マスター、いつもの濃いやつ頂戴」  店に入ってくるなり客が注文を投げかけた。いつもの常連のうちの一人か、特に気にするほどでもない。  顔を上げることなくカップを拭う作業を続けていると彼も見慣れないウェイターに気づいたようだった。 「見ない顔だけど新人さんかい」 「どうも」  反射的に挨拶を返してから初めて顔を上げた。そして男の姿に目が釘づけになる。  太陽の光みたいに赤い髪、シャープな横顔、その瞳は活力に満ちて輝いている。  忘れたことなど片時もなかった。  “ジュリアン” だ、いや “ジャミル” でもある。  まだ生きていたのか。俺からすべてを奪った因縁の相手とまさかこんなところで再会するとは。自らの幸運を神に感謝する。  ——今度こそこいつの息の根を止めてやる。  それが我が宿命であり悲願でもある。神は俺を見捨ててはいなかったのだ。  だが不覚にも武器の類なんて身につけていないことに気がついた。“ジャミル”のように適当な皿でも割ってその喉を掻き切ってやろうという思案が一瞬頭をよぎったが、ここで騒ぎを起こせば自分が公安の人間だということが明るみに出てしまう。そうすれば組織だけでなく閣下にも迷惑が及ぶのは想像に容易い。  今日のところは悔しいが見逃すしかない。 「新人さん、名前はなんていうのさ」 「……ロベール」 「俺はシルヴァン、ここのコーヒーのファンなんだ」 「その割にはしばらく顔を見せなかったじゃないか」 「ちょっとマスター、それは言わないでくれよ」  へらへらと軽口に応じるシルヴァンに店中がどっと沸く。その様子から彼がずいぶんと人に好かれる質らしいことがわかる。ジュリアンやジャミルとは大違いだ。  ジュリアンは国王の息子として色眼鏡で見られてばかりで彼のそばには心を許せる人間なんて誰ひとりいなかった。喧嘩に明け暮れ酒に女と放蕩三昧、すべてを我が物としていたはずなのにいつもどこか満たされないような顔をしていたのを憶えている。  一方、ジャミルは正反対だった。孤児で貧しい境遇のせいで周囲から疎まれ踏みつけにされていた。それでも激しい気性は相変わらずのようだったが、瞳は虚無で翳ってかつての王太子としての栄華は見る影もなかった。  その点シルヴァンはどうだ。冗談を言っては人を笑わせ、あいつの周りには花が咲いたようだった。あいつのあんなに慕われる姿をかつて見たことがあっただろうか。  “リシャール”もまた孤独だった。子守唄のように宿敵への恨み言をきかされて育ち、青春を国務に捧げた。  だが “リヤード”は違う。両親からの愛情を受け仲間には慕われ、リシャールのときに得られなかった普通の幸せを享受することができた。リヤードはあの生活に満足していた。身を焦がすような憎しみの炎も自分では御せないほどの殺意も知らず、ただ一人の人間として真っ当に生きられた。  ただしあいつと出逢うまでは、の話だが。  あいつと再び対峙したことで全てが狂ってしまった。かつて感じた憎しみも殺意も自分のなかに息づいていると悟ってしまった。あいつさえいなければ、俺が、“リヤード”があそこで死ぬこともなかったのだ。  シルヴァンもジュリアンやジャミルのときに味わえなかったこともこの世界では感じられているだろうか。その幸福を俺がこの手で壊せしてやれば、あいつは一体どんな顔をするのだろう。  自分の前に屈服するあいつを見てみたい。  俺の前に跪き、涙を流して許しを乞う。そして自らが搾取してきたものの大きさと自分の愚かさを後悔しながら惨めに命を散らすのだ。  幸福の頂点に達した瞬間が命日になるなんて、これ以上あいつにふさわしい死に様は他にない。

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