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フランス編2 それはきっと歯車が

 店中の食器を磨きあげ、明日の仕込みも終わってしまった。もうするべき仕事はなにもない。  仕方なく顔を上げると、カウンター越しににんまりとこちらをみつめるシルヴァンと目が合った。 「ようやく見てくれた。俺もう待ちくたびれちゃったよ」  ぷう、と口を膨らませるおどけた姿に無性に腹が立つ。 「じゃあさっさと帰ればいいじゃないか」 「えー嫌だよ、これからやっとロベールとお喋りできるっていうのに」 「ここはお喋りするところじゃない。コーヒーを飲む場所だ」 「コーヒーを飲みながらくだらない話に花を咲かせる、それがコーヒーハウスの醍醐味ってもんじゃないか」 「たかがコーヒー一杯で延々居座られたらこっちが迷惑なんだよ。客単価って言葉知ってるか?」 「それじゃコーヒーもう一杯頼むから。それなら文句ないだろ」  なあ? と目尻を下げて伺いを立ててくるシルヴァンの様子に引き下がらずを得ない。本当なら引っ叩いて無理にでも店から追い出すこともできなくもないが、なにせ今は潜入中だ。余計な騒ぎを起こして目立つわけにもいくまい。  だからといってお前を許したわけではないからな、とぎりりと睨みつけるとシルヴァンはなおもへらへらと笑ってみせた。 「まーた怖い顔しちゃって! そんな目してたら子供たちから嫌われちゃうよ」 「子供と関わる機会なんてそうそうない。余計なお世話だ」 「へえ、じゃあ弟も妹もいなかったわけか」 「いや、妹が一人いた。革命が起きる前にペストで死んじまったが」 「俺も親父を病気で亡くした口だよ。薬どころかパンを買う金もなくてさ、酷い世の中だったよな」  この世界でも苦労しているらしい。ジュリアンが吸い尽くした甘い蜜の代償を後のお前自身が払わされているのかと考えれば胸がすく思いがした。  話しながらも淹れていたコーヒーを手渡すとシルヴァンは大事そうに一口すすった。その満足げな表情に気を良くする。 「今や贅の限りを尽くした王妃も国王も処刑されて民衆の時代になったんだ。喜ばしいことじゃないか」 「そりゃそうだけど、こうも統制が厳しくなると職業柄困るんだがな……」  小声でそう呟いてカップに目を落としたシルヴァンに眉をひそめる。 「今なにか言ったか?」 「いいや、特になにも」  相変わらずへらへらと軽薄な笑い方をする男だ。なまじ生気のない顔をしていた時代を知っているからこそ気味が悪い。  “リシャール”のときに失敗したがまた一服毒を盛ってやろうか。……いや、マスターに迷惑をかけるのはよそう。たつ鳥跡を濁さずともいうし、まもなく俺はこの店を去る人間だ。俺のせいでマスターの店が潰れることになったらさすがに良心が咎める。 「ロベール、また難しい顔してどうかしたのか?」 「なんでもない。もともとこういう顔なんだ」 「そうか? せっかく綺麗な顔してるのにもったいないな」  綺麗? 予想だにしなかった単語に思わずむせてしまう。 「ロベールは綺麗だよ。そりゃ睨まれたらちょっとばかり怖いけどさ。でもこのブルネットの髪もたっぷりしていて見事だし案外男前な面構えだよ」 「『案外』は余計だ」  俺が口を挟むとシルヴァンは 違いない、と腹を抱えて笑った。その様子につられてくつくつと笑みがこぼれる。 「ほら、笑ってたほうがずっといい」 「大きなお世話だ」 「にこやかなほうが客の入りも良くなるとおもうんだけどな。年老いたマスターと無愛想な店員のコーヒーハウスなんて誰も入りたがらないって」 「じゃあお前も鞍替えすればいいだろう」 「嫌だね。俺はここのコーヒーのファンなんだってば」  口を尖らせるシルヴァンに呆れていると視界の端に客の男が忍び足で店を出ていくのが見えた。 「おい、お勘定は——」  カウンターの脇の売り上げの入った箱に視線を走らせるとそこは無造作に荒らされていた。  ——泥棒だ。そう認識して声を荒げようとした瞬間、シルヴァンがすっくと立ち上がってあの男のもとへ走っていくのが見えた。 「……謀られた」  自分の情けなさに歯噛みする。用事でマスターが店にいない瞬間を狙われた。シルヴァンがあまりに気さくに話しかけてくるものだから応じてしまったせいで隙をつかれたのだ。これでも閣下のために働く委員の一員だと言えるのだろうか。  まさかシルヴァンもあの男とグルになって俺を謀ったのではあるまいか。最悪の想像に嫌な汗が背中をつたう。 「おーい、待たせたな、ロベール」  頭を抱えて途方に暮れていると、シルヴァンが額に汗を浮かべて戻ってきた。その腕はさっきの客の男をがっしりと掴んでいる。 「どうしてお前が……」 「どうしてって泥棒を捕まえてきたに決まってるだろう。ロベールはこの店から離れられないし俺が行くしかないじゃないか」  ほら、と何でもないことのように泥棒を突き出すシルヴァンを一瞬でも疑った自分に恥ずかしくなった。 「とにかく警察に通報しよう」  この俺がここまで肝を冷やす思いをさせられたんだ。すぐにでも監獄にぶち込んでやりたい。 「いや待ってくれ」  憤る俺をシルヴァンは制した。 「まずは事情をきこうじゃないか。このオッサンを見てみろよ、こんなに青ざめて気の弱そうな奴が強盗なんてなにか訳があるんだろう」  なにを勝手に、と抗議の声をあげようとするがシルヴァンのいつにない真剣な表情に口を噤む。 「じ、実は娘が病気なんです。息子を兵にとられて働き手もなく家計は火の車で……本当はこの店で最後の贅沢をしてから一家心中するつもりだったんです。でもお二人の家族の話が耳に入ってきて、それで……」 「俺たちが病気で家族を亡くしてるから自分が盗みを働いても見逃してくれるとでも考えたのか」  情けなく首を垂れた男はそれが事実なようでひたすら謝罪の言葉を繰り返してばかり。  馬鹿馬鹿しい。こんな気の弱い人間に足元を見られたという時点で腹が立つ。 「なあロベール、この人見逃してやってくれないか」  シルヴァンの言葉に思わず絶句した。 「なに言ってるんだ、こいつは泥棒だぞ。警察に突き出して罪を償わせるっていうのが筋ってもんだ」 「それはそうだけどこんなに反省してるし金も返ってきたじゃないか。俺とお前が黙ってれば済む話だろう」  懇願するシルヴァンに面食らう。俺の知る“ジュリアン”は傲慢で気分屋で自分に盾つく人間は誰であろうと一発お見舞いしてやらないと気が済まないという気性の激しさだった。  そんなお前がなぜこんな泥棒風情の肩を持つ。俺の知る“ジュリアン”は少なくともこんな奴ではなかった。 「な、いいだろう? ロベールお願いだ、見逃してやろうよ」  なおも粘るシルヴァンに根負けして最終的には俺が折れるほかなかった。 「こいつがいなきゃお前は豚箱行きだったんだ、感謝しろよ」 「ありがとうございます、この御恩は決して……」 「もういい、二度とその顔見せるんじゃないぞ」  ひらひらと手を振ると男は何度も頭を下げて店を後にしていった。 「……なんであんな奴の肩を持ったんだ」 「なんでって……あの人は過去の俺と同じだからだよ」 「過去のお前?」 「ガキの頃病気で親父を亡くしたって言っただろう。子供にできる仕事なんてたかが知れてる。弟たちを食べさせるには盗むしかなかった」  つとめて明るい表情のシルヴァンに二の句が継げない。 「かっ払いも脅しもなんでもやった。それしか生きる方法がなかったからだ。俺はなんとか今の職場に拾ってもらって足を洗えたけどあのオッサンは孤独だった。あれは救ってもらえかった世界の俺だ」  壮絶な過去を飄々と語るシルヴァンには不思議と悲壮感は漂ってはいなかった。清々しい表情に過去と決別した人間の覚悟を感じる。  シルヴァンと“ジュリアン”は似ても似つかない人間だと思っていたがそれは間違いだったようだ。あいつは間違いなく“ジュリアン”だ。  ジュリアンも人格が形成されるまえにシルヴァンと同じように頼れる大人と出会えていたらあそこまで歪んだ道徳観念は持たずに済んだかもしれないな、なんて思いを馳せた。 「まあロベールが話のわかる男でよかった。ありがとな」  シルヴァンが伸び上がって俺の頬にキスを落とす。その柔らかい感触に驚いてつい頬に手をやる。してやったりといった表情で勝ち誇るシルヴァンに唇がわなわなと震えた。  前言撤回だ、俺の知る“ジュリアン”はこんな軽薄な人間じゃない。

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