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フランス編3 雨に降られて熱をもつ
コーヒーハウスという場所は古くから自由な表現の場として民衆に愛されてきた。一杯のコーヒー代さえ払えば誰でもその場に居続けることができる。そのためそこはしばしば議論の場として文人たちの溜まり場にもなるという。著名な人間のそばにはその影響力を目当てに決まって反革命因子が紛れ込むものだ。
だからこそ有益な情報の入手にはもってこいだと目をつけたのだが、本業の仕事の状態は芳しくない。上司からも告発に値する確かな情報は入ってこないのかと手紙で催促されたばかりだ。
こっちだって殺伐とした情報交換のサロンのようなイメージを抱いてやってきたのに、こんなに長閑な場所だとは思っていなかった。
「今日は客も少ないし、ロベールはもう帰っていいぞ」
俺が仕事にあまり身が入っていないのを見かねてかマスターがそう声をかけてきた。彼の言う通り今日は珍しく閑古鳥が鳴いていた。このまま居座っていてもなにか収穫があるわけでもないのでマスターの言葉に甘えることにする。
締め作業のためにまだ店にいるというマスターを残して外へ出た。分厚い雲が空を覆い尽くしているせいであたりは薄暗い。こんな天気じゃいつ雷が落ちてもおかしくはない。
手元に傘もないので足早に帰路に着く途中、やはり大雨に振られてしまった。こんなときばかり予想が的中する自分が恨めしい。慌てて軒先に避難する。自宅のアパルトマンまではまだ距離があるがこのまま雨宿りをしていてもいつ降りやむかどうか検討もつかない。
ぶるりと身体を震わせる。さっきまで雨に濡れていたせいで冷えてしまったようだ。風邪でもひいたらかなわないが、一体どうしたものか。
「あれ、ロベールじゃないか」
途方に暮れていると傘をさしながら親しげに手を振ってくるシルヴァンと目が合った。
「こんなに濡れてどうしたんだよ、傘持ってないのか」
「……あいにく家に置き忘れてね」
濡れ鼠になった情けない姿を一番見られたくない相手に見られてしまった。その事実に声がますます無愛想になる。
「この雨じゃ明日になるまで止まないだろうな。家まで送っていってやるよ、どこらへんに住んでるんだ?」
「ああ、この通りをまっすぐ——」
反射的に答えながらはっとして口をつぐんだ。自宅には制服やら調査に使った機密書類が山積みになっている。訪ねてくる人間もいないからと高を括って掃除も疎かにしているし、あそこに入られるのは絶対にまずい。
「いや気にするな。そんなに遠くないから傘なんてなくても大丈夫だ」
「傘がなくても平気な人間が雨宿りなんてするかよ。遠慮なんて俺たちの仲には必要ないだろう」
「お前とそんな仲になった覚えはない」
いつものごとく軽口を叩きながら頭の中で必死に思案を巡らせる。自分が保安委員会の諜報員だとばれるのはなんとしてでも避けたい。
非常事態だ、やむを得まいと覚悟を決める。
「そうだ、お前と店以外で会うなんて初めてじゃないか。せっかくだから呑みにいこう」
「へえ、どういう風の吹き回しだ?」
「早めに退勤できて気分がいいんだ、どうせ暇なんだろう? ちょっと付き合えよ」
口から出まかせもいいところだ。少々苦しいが家まで来られるよりかはずっといい。
差し出されるままにシルヴァンの傘に入れてもらう。
「どこかいい店知ってるか」
「近くに行きつけのところがある」
シルヴァンに案内されるままに酒場に入っていく。素面の状態じゃ難しいが酔わせてしまえばこっちのものだ。適当に酒をのませて頃合いを見て抜け出せばいい。
そう思っていたが甘かった。シルヴァンをしこたま呑ませたのはいいがひどい絡み酒で席を外すことすらままならない。理由をつけて切り上げようとしても無理矢理座らされてしまう。
「おいロベール、せっかくだしもっと呑んでいけよォ」
「なに言ってるんだこの酔っ払いが。俺は明日も仕事なんだ。さっさと帰らせてくれ」
「俺はなあ、ロベールが誘ってくれて本ッ当に嬉しかったんだよ。なんかでかい仔猫ちゃんが懐いてくれたみたいでさァ」
「だっ、誰が仔猫ちゃんだ!」
「俺の目の前のこいつだよォ」
そう言いながらシルヴァンはふにふにと俺の両頬を引っ張って弄り倒してくる。痛くはないが気分がいいものじゃない。
冷たく払いのけると酷いなァと笑いながらよりかかられた。とんだ酔っ払いだ。
「……おい、シルヴァン?」
気づけば俺にもたれたシルヴァンは寝息をたてて眠り込んでいる。懐いてきたのはどっちだよ、と胸の内で悪態をつく。
酒場の外に捨て置いて帰ってしまおうかとも思ったがこの土砂降りだ。肺炎にでも罹られたら寝覚めが悪い。仕方なく歩くのに肩を貸してやる。しかし相手は泥酔しきっていて歩くのもやっとなようだ。
「とりあえず家まで送ってやるから道案内しろよ。適当な道教えたらぶっ飛ばすからな」
片手でシルヴァンを支え、もう片方の手で傘をさすのはかなりの重労働だ。呂律のあやしいシルヴァンの声を頼りになんとか家にたどり着いたときには二人ともすっかり雨に濡れていた。どうせ同じびしょ濡れなら最初から無理にでも一人で帰っておけばよかったと後悔をするが後の祭りだ。
シルヴァンを寝台に寝かせ、水を飲ませてやる。杯を傾ければ素直に飲み下していく姿は赤ん坊のようで笑ってしまう。起きているときは騒がしい男だが眠ってるときは意外とかわいいじゃないか。
「適当に服借りていくからな」
すでに夢の中であろうシルヴァンに一応声をかけた。こんなびしょびしょでは帰りたくても帰れない。雨に濡れて重たくなった上着を脱いだ。シャツも肌に纏わりついて気持ち悪い。もう少しの辛抱だとボタンを外していると背中から腕が伸ばされたのがわかった。
「なっ——」
「ずっと好きだった」
後ろからぎゅっと抱きしめられる感覚に心臓が跳ねた。まさかの言葉に耳を疑う。
「おいおい、どこかの女と間違えてるんじゃないのか」
きつくまわされた腕を振りほどこうと身をよじるがシルヴァンの力は予想以上に強い。体格でいえばこちらに軍配が上がるはずなのになぜか身体が言うことを聞かなかった。
ロベール、ロベールと名前を繰り返しながらシルヴァンが俺の首筋に唇を寄せる。二人とも雨でずぶ濡れになったせいで密着するとお互いの体温をより強く感じて、その熱さに思わず目を閉じた。
好きだとうわ言のように呟くシルヴァンにどうしたものかと考えあぐねていると、くるりと身体の向きを変えられた。真正面からとらえたシルヴァンの瞳は俺の心臓を射抜いて離さない。
ただ単純に、綺麗だと思った。
その燃えるような熱い視線に吸い込まれるように、気づけば肌を合わせていた。腕を振りほどこうとすればできたはずだし、今だって身体を突き飛ばしてやることもできるはず。だが俺の身体は自分の意思に反して動こうとしない。
首筋を這うシルヴァンの舌に熱い吐息が漏れる。ほだされるな、なに考えてるんだ。頭の奥で警鐘が鳴る。しかし思考回路も溶かされてもう何も考えられない。
今度は自分の意志でシルヴァンの背中に腕を回した。——どうやら俺も酔っていたみたいだ。
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