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フランス編6 終末の足音がきこえる◆

「あそこの棚の箱とってくれないか」  マスターが指さした棚の一番上にはコーヒー豆の補充の入ったボール箱が置かれていた。リューマチを患うマスターには難しくても自分なら少し背伸びすれば取れないものではない。  言われた通りに伸び上がって棚に手を伸ばすと、その衝撃に痛んだ腰に思わず身が縮んだ。痛みを堪えながら箱をとって手渡すととマスターが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。 「どこか身体でも悪いのか」 「いえ、大したことでは……」  心配してくれているマスターに苦し紛れに苦笑いを返した。連日連夜シルヴァンに抱かれているせいで全身が筋肉痛だなんて口が裂けてもいえるわけがない。  昨日だって家を訪ねてきた俺の姿を見るなり襲いかかってきたのだ。仔犬のようにじゃれているだけかと思って好きなようにさせていたが、それがかえって奴を図に乗らせることとなってしまった。  寝台にうつぶせに横たえられた身体に覆いかぶさるようにしたシルヴァンが俺を隈なく舐めまわす。いつのまにか手際よく脱ぎ捨てられた服たちが脇に無造作に散らばっている。  皺にならないかなんて思っていると、余計なことを考えるなと咎めるように肩にチリリとした痛みが走った。血がにじむほどではないがきっと痕が残るだろう。シルヴァンは俺の身体を噛んだり吸いついたりして痕を残すのが好きらしく服で隠れる場所には無数の花が赤く散っている。  その数が彼と重ねた情交の日々を物語っていた。  シルヴァンに触れられるたびにざわざわと肌が粟立ち、熱い吐息が漏れてしまう。  俺のどこに触れれば、どこをどうすれば悦くなるのか奴には全てお見通しなのだ。それに無意識のうちに俺もシルヴァンとの情事をすっかり身体に教え込まれて何気ない仕草ひとつをとっても自然と快感を拾うようになっていた。  彼の舌が身体を這うたびに下肢に熱が集まってくる。  肩口も背中も脇腹も脚の付け根もすべてシルヴァンの唾液で濡れて冷え始めているはずなのに、気持ちは昂り続けて俺自身は解放を求めてぽたぽたと先走りを零していている。  散々焦らされたあとに徐々にシルヴァンが挿入ってくる感覚に全身が震えた。俺の息が整ったのを確認してから始まるゆるりとした抽挿はそれだけで快感の波に揺れる俺をさらに上へと連れていってくれる。時折悦いところにグリリとシルヴァンのそれが擦れるのがたまらない。それまで肝心な場所に触れられぬままでいた身体に急激に与えられた刺激に全身が脈打つ。その流れに抗うことなく精を漏らした。  シルヴァンは自分本位な抱き方は絶対にしない。獣のように求めてきても俺が少しでも嫌がる素振りを見せればすぐに動きを止めてしまう。その姿は待てと命じられた犬のようで滑稽なのだが、たまにそれが怖くなるときがある。  その従順な態度は俺に嫌われまいとする意志の表れだ。“ジュリアン”や“ジャミル”はともかく、シルヴァンは人に裏切られる気持ちを知らない。少年だったころに父親を亡くし、生きるために道を踏み外した彼は周りの人間の助けがあって真っ当な道へ戻ってきた。その経験がシルヴァンに愚直なまでの真っ直ぐさと無償の曇りなき信頼を与えた。  そんなシルヴァンから向けられる好意を俺が無下にしたとき、彼は一体どうなるんだろう。 「ロベール、三番テーブルにこれを」  マスターの声にはっと現実に引き戻された。思考を巡らせているとつい我を忘れてしまう。気を引き締ねばという自戒を胸に、マスターに言われるがままにカップを運ぶ。  音を立てないようにそっとカップを置きながら客の顔をうかがうと、目に飛び込んできた見知った顔に息を呑んだ。 「——モーリス、なんでお前がここに?」  保安委員会の諜報員として一緒に働く同僚だ。そんな彼がこんな町外れにいるなんてと思わず疑問が口をついて出る。 「それはこっちの台詞だ」  モーリスが声をひそめて辺りを見渡す。いつも通りまばらな客入りだが人目が気になることに変わりはない。  テーブルにコーヒー代には少しばかり色をつけた金額を載せ、モーリスは俺の腕を掴んで引っ張った。 「親父さん、ちょっとこのウェイター借りてくよ」 「おや、知り合いかい? 」 「ただの昔馴染みだよ」  曖昧に言葉を濁して店の外に連れられ、息をつく間もなく路地裏に押し込まれた。 「おいおい、あの店ってロベールの縄張りだったのかよ」 「縄張りってわけじゃ……でもあそこで張ってるのは事実だ」 「じゃ、この男の顔わかるか」  モーリスがポケットから取り出した写真にはコーヒーハウスによく訪れる常連の顔が写っていた。マスターと親しいらしくカウンターに腰掛けては世間話を繰り広げている。シルヴァンと話している姿もたまに見かけるが、特に不審な様子もない。素直に頷くとモーリスはやはりという表情で頭をかかえた。 「こいつは俺がマークしてる男だ。いわゆる文士崩れって奴なんだが、こいつが寄稿してる社説が最近反革命派の間で話題になってる」 「ロベスピエール閣下を否定してるってことか」 「閣下どころか革命も外交も何もかもだ。とにかくこいつと関係のある人間を探れば芋づる式に反革命因子が出てくるはずなんだ」 「それでこいつが来るのを待ち伏せしていたってわけか」  なんということだ。不審な様子はないと思っていたこの店にすでに反革命派が出入りしていたなんて。それに気づかなかった自分の情けなさに歯噛みする。 「いや、でも彼が店で政治の話をしている姿は一度もみたことがないが」 「本当か? だがこいつが確かに反革命思想を持ってるのは確かなんだよな……」  あの店でなにか怪しい動きがあれば自分が気づかないはずがない。なぜ今まで常連の正体を見抜けなかったのかと考えあぐねていると、モーリスがぐいっと顔を寄せてきた。 「最近お前の告発が少ないって噂になってる。まさかとは思うが、閣下を欺いてるなんてことはないだろうな」 「まさか! 俺は閣下の理想を信じてる。神に誓ってそんなことはない。ただ——」  ただ、シルヴァンのことばかりに気を取られて本業が疎かになっていたのもまた事実だ。自分の復讐を前にして果たすべき任務を蔑ろにした。現にここ数週間告発だってできていない。  唇を噛んでうつむく俺の顎をモーリスがぐっと掴んだ。 「これまでの仕事振りは同業の俺が一番よく知ってる。優秀だったお前がなんでこんな場所で燻ってるんだ? 」 「別件でいろいろあったせいで今はまだ思ったほど収穫がないだけだ。もうじき元通りになるから変に勘ぐるのはよしてくれ」 「閣下を裏切った人間に待っているのは死だけだ。お前もよく知ってるだろう」  今まで幾度となく革命を否定する人間を告発しては断頭台に送ってきた。だからこそ閣下に仇なす人間の末路は想像に難くない。  俺をみつめるモーリスの視線は険しさを増している。歯切れの悪い返事しかできない俺に苛立っているのだろう。自身の間抜けさはモーリスに言われるまで反革命思想の常連客に気付けなかった自分には痛いほど身に染みている。 「お前が告発に踏み切れないのはあの男が原因か」 「いったい誰のことだ?」 「赤毛の常連客だよ。ロベールと親しい仲だってていうのはもう耳に入ってる。諜報員の情報網舐めんなよ」  シルヴァンのことだ。藪から棒に図星をつかれてぐっと握った拳に力が入る。 「あのチビのどこにそんな義理立てするような理由があるんだ? お前がこんなことで手こずってるなら俺が奴をしょっ引いてもいい。理由なんて後からでっちあげればそれで済む」 「おい、あいつには手を出すなよ」 「おやまあ、随分とご執心じゃないか。あんな男より、俺のほうがお前を満足させてやれるぜ」  掴まれた顎をぐいっと上に持ち上げられる。いつのまにか腕は腰にまわされ、尻を撫ぜられる感覚に虫唾が走った。 「悪いがお前とはそんな関係になるつもりはない」 「そう言うなよ、同じ理想を夢見る同士じゃないか」 「今更なにを? あれは当時が特別だっただけだ」  モーリスとは学生時代から付き合いがある。勉学に勤しむ身分とはいえ、若い性欲を持て余した男たちが戯れで互いに昂った身体を慰め合うなんてことは日常茶飯事だった。御多分に洩れず俺も級友たちとそんな秘事に耽っていたのも事実だ。その中にはモーリスもいた。 「あの時からロベールは引く手数多だったもんな。でも俺はお前を一番気に入っていたんだぜ」 「馬鹿言うな。あんなのただの性欲処理のお遊びだ。愛だの恋だのそんなくだらない感情は持ち合わせていなかったし、戯れ以外になんの意味もない」 「つれないこと言うなよ、何なら今ここでもう一度確かめてやってもいいんだ」 「ふざけるのも大概にしろ。いい加減怒るぞ」  いくら睨みつけてもモーリスが観念する気配はない。尚も纏わりついてくる奴を力任せに突き飛ばした。 「おい、なにしてるんだ!」  怒号とともに駆け寄ってくる影にモーリスが含み笑いを浮かべた。 「おやおや、騎士様の登場ってわけか」  取っ組み合う二人を只事ではないと感じたのかシルヴァンが必死の形相で近づいてくる。このまま争うのは得策ではないと判断したのかモーリスがひらひらと両手をあげてみせた。 「これは旧友としての忠告だ。決して情に流されるなよ」  情に流されるな? あれだけ人をおちょくっておいて何が旧友としての忠告だ。恨み言のひとつでも言ってやらないと気が済まないと口を開きかけたときにはモーリスはすでに雑踏のなかへと消えていた。 「ロベール大丈夫か。なんなんだ、あの男は」  ようやくやってきたシルヴァンは肩で息をしながら俺に詰め寄ってくる。 「スクール時代の知り合いなんだがちょっと口論になってね。だが大したことはない」  憤りを隠さないシルヴァンを宥めながら俺はモーリスに言われたことを考えていた。

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