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フランス編8 許された者が向かう先
「……おはよう」
寝ぼけ眼で目をこするシルヴァンの髪は鳥の巣みたいに絡まってひどい有様だ。こんな真っ赤な鳥の巣じゃどんな鳥も怯えて近寄らないだろうに。そんなことを考えて忍び笑いをする。
「はい、コーヒー」
未だに夢うつつなシルヴァンを半ば無理やりテーブルにつかせて目の前にカップを置いてやると、その衝撃に目も覚めたようだった。
「コーヒーって、これロベールが淹れてくれたのか? 」
「俺じゃなかったら誰が用意するんだよ」
目を爛々と輝かせる様子が宝箱をみつけた子どものように無邪気で屈託がない。そんなに感激されるようなことでもないんだがとこそばゆい思いがする。
カップに口をつけるシルヴァンを恐る恐るみつめた。
「美味い! 美味いよ、これ」
「そりゃどうも」
「さすがマスター仕込みのコーヒーだ。でも今までこんなことしてくれたことなかったのに。急にどうしたんだよ」
復讐をやめてもいい。そんな腑抜けた自分を受け入れると昨晩シルヴァンが言ってくれた。過去に囚われることなく自分の幸せを掴んでいいと許可された気がした。
その言葉にどれだけ救われ、心が軽くなったのかシルヴァンにはわからないだろう。
「別に気が向いただけだ」
急に恥ずかしくなってそっけない態度をとってしまう。嬉しそうにコーヒーをすするシルヴァンを見ているのも照れくさくなって、気持ちを紛らわせるようにテーブルの上を整理する。
新聞やら雑誌やらが積み上がってひどい状態だ。自分の部屋も人のことは言えないが、シルヴァンの家はもっとひどい。身の回りに頓着しない性格がこんなところに災いしているのだろう。
しかし何もこんなに溜め込まなくてもいいのに。拾っても拾っても何かしらの紙類がでてくる。日付も新しいものから古いものまで様々で整理なんて概念は存在していないかのようだ。
手持ち無沙汰に目についた雑誌をぱらぱらとめくっていると、目についた言葉にぎょっとした。慌てて別のページも開いてみるがやはり内容は似たり寄ったりだ。
政権批判、革命批判、そんなもので記事が埋め尽くされている。こんなものが閣下の目に触れたら一発で粛清対象だ。
「ああ、それ気に入った? その雑誌、うちの出版社が出してるんだ」
出版社? 一体なんのことだ。
突然のことで頭が混乱して思考がまとまらない。目眩まで起こしそうだ。
「出版社ってことは、お前の仕事って——」
「言ってなかったっけ。雑誌の編集が基本なんだけどたまにコラムも書いてる。その雑誌のどこかにも俺の文章が載ってると思うけど」
読みたい? と悪戯っ子のように笑うシルヴァンの顔には悪意は感じられない。
シルヴァンが反革命派。
そう考えただけで身の毛がよだつ思いだった。
「……つまりお前はここに書いてあるものに共感してるってことなんだな」
「概ねはそうだ。貴族を処刑するところまではよかったけど今は行きすぎてる。何でもかんでも粛清して言論の自由だって危ういし、ジャーナリストの端くれとして世間にそれを広めないと」
シルヴァンの口から飛び出す言葉に理解が追いつかない。まるで知らない国の言葉をきいているみたいだ。
「そうだ。今晩コーヒーハウスに行くんだけど、ロベールも来ないか」
「今晩って今日は定休日のはずだし夜は店も閉まってるだろう」
「3のつく日は定休日でも夜だけは開いてるんだ。毎月3日と13日と23日は真夜中まで店が開放されて談義の場所になってる。こういう政治の話は大っぴらにできないから隠れてやってるんだ」
ごくりと生唾を呑み込む。背中に嫌な汗がつたうのがわかる。
マスターも常連客もあそこにいるのは世話になった人たちばかりだ。あの店を告発すれば彼らも裁判にかけられ断首されてしまう。そんな姿は見たくもない。
しかし、閣下を裏切るわけには——
「その会合にはお前もよく行くのか」
震える身体をおさえ、平静を装ってたずねる。
「毎回じゃないけど取材も兼ねて毎月一度は行くようにしてる。どうした、乗り気になったのか」
「いや……」
曖昧に言葉を濁す。このことを知ってしまった以上、保安委員会に報告しないわけにはいかない。閣下を裏切ることなど俺には到底できない。
今まで日中しかあの店にいなかったからわからなかったが、夜になるとそんな反革命派たちが集うサロンになっていたとは考えもしなかった。自分の迂闊さが招いた結果だ。
そこでふとある考えが脳裏をよぎった。そこで働いていた自分すら微塵もあのコーヒーハウスが反革命思想の根城だったことに気づかなかったのだから、当然他の委員にもわかるまい。俺さえ黙っていれば彼らは粛清されずに済む。
——いや、モーリスがいる。
モーリスもあの店に出入りしている常連客を探っていた。俺が黙ってしたとしても彼に告発されるのは時間の問題だ。
「お願いだ。今日は家にいてくれ」
「なんだよ急に」
「とにかく今日だけは家から出ないでほしい」
必死の形相で頼み込む姿にシルヴァンがうろたえるのがわかる。それも無理はない。でも取り繕う余裕などなかった。
「じゃあ、代わりにキスしてくれるか」
予想外の返答にぐっと言葉に詰まる。今ここで口づけをしたらシルヴァンがジュリアンの記憶を取り戻してしまう。そんなことできるわけがない。
「ごめんごめん。冗談だよ、ロベールが変なことを言うからつい」
「キスは無理だけど、お前が望むことならなんでも」
シルヴァンの薄ら笑いが一瞬にして消える。
「一生のお願いだから、今日は家にいてくれるな? 」
シルヴァンの手を取ってその甲に口づける。手首、肘、肩口、鎖骨、首筋とどんどん上へキスを落としていく。
抱き寄せると小柄なシルヴァンの身体は俺の腕にすっぽりおさまる。鼻腔をかすめるのは先ほどまで口にしていたコーヒーの匂いだ。
その匂いから意識を遠ざけようとシルヴァンの首筋を軽く噛む。口を離すとそこに赤く散った歯形が自分のものだという印のように思えて、夢中で他の場所にも吸いついた。
「ロベール?」
自分の腰にまわされたシルヴァンの手を軽く握る。その手は震えることもなく緊張で強張ることもなく、ただそっと自分の身体に添えられている。それが何よりの信頼の証だ。今ここで彼の背中にナイフを突き立てたとしても、シルヴァンは最期の瞬間まで俺のことを疑いもしないだろう。
愛されていると感じる。愛おしいとも感じる。
最初は憎い敵としてしか思えなかった。殺してやりたいと願ったのは数知れない。それでも今は不思議なことに自分の腕の中のこいつに愛しさ、これまでとは真逆の感情を抱いている。
キスができないのをこれほど残念に思ったことはない。
「俺が好きだと言えなくなっても、お前だけは憶えていてくれ」
この世の誰よりも憎んだ相手のはずなのに、今では自分の全てを捨てても守りたい人間になってしまった。
感情を表にすぐ出す情熱的な瞳も、寝癖のせいで不格好な赤毛も、忖度のない愚直なまでの真っ直ぐさもすべてが愛おしい。
一度自覚してしまえばもう気づかないふりなんてできなかった。
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