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フランス編9 翼をもがれて傷だらけ

 重い足取りで歩き慣れた道筋を辿る。いつもの道、いつもの場所、何も変わったところはない。  ただひとつ違うのは身につけているのが保安委員会の正装であるということだけだ。  今からコーヒーハウスを摘発する。上にはもう報告してある。今さら怖気づくわけにはいかない。  告発するにあたってシルヴァンに関係しそうなことは全て伏せてある。モーリスの追っていた常連客の件や潜入していたコーヒーハウスで夜に行われる会合について話せば信憑性は十分だった。自分が告発すれば自分の都合のいいように報告内容を精査できるし、今から乗り込む現場にシルヴァンさえいなければ問題はない。  結果的には雇ってくれたマスターや馴染みの客たちを売ることになるけれど、少なくともシルヴァンだけは守れる。閣下の信頼を裏切ることに変わりはないが、これは苦渋の決断だった。  ここへはシルヴァンの目を忍んで彼が寝入った隙にこっそりと出てきた。彼にお前の仲間を密告しに行くんだとは口が裂けても言えなかった。 「好きだって初めて言ってくれたな」  これでもかというほど目尻を下げて心底嬉しそうなシルヴァンの顔を見たら、もっと早く伝えてやればよかったと後悔した。  二人で一日中家の中で過ごすなんて初めてのことで、お互い初心なアベックのように気恥ずかしく照れくさい雰囲気が漂っていた。 「家を引き払うよ。それで二人で新しい家に住もう」 「それはいい。お前、俺の家に入り浸りで全然帰ってなかったもんな」 「新しい住処はどこがいい」 「どこでもいいよ、ロベールが気にいるところなら」 「外国でもか」 「別に構わないよ。出版社は辞めることになるだろうけど文字を書く仕事はどこでもできるし」 「それじゃ、外国がいいな。どこか遠くへ」 「海の見える場所にしようか。海辺でロベールの淹れたコーヒーを飲むんだ」  二人でベッドで横になりながら延々と夢物語をふくらませた。保安委員会に属している以上簡単に外国へは行けないだろうが、シルヴァンと話しているとそれが可能であるような気がした。  革命も粛清も関係ないどこか遠くへ行けたらこんなに悩まずに済むのだろうか。  次から次へと脳裏に浮かんでくるシルヴァンの残像を振り切るように頭を振る。  保安委員たちを引き連れ、迷いを断ち切るように勢いよくコーヒーハウスの入り口を開けた。  店内がしんと静まり返る。シルヴァンの話通り店の中には客たちでごった返していた。酒瓶の傍には反革命思想だと禁書扱いになった新聞が散らばり、要注意人物として指名手配されている思想犯の姿も見えた。 「保安委員会だ。反革命的な会合があるとの情報により、貴様たちを連行する」  逃げようとする者、力尽くでそれを抑え込もうとする者で騒然とする。まるで現実味がないように感じられてただ呆然と立ち尽くすことしかできない。  視界の端に委員に連行されるマスターの姿が見えた。こんな姿を見られたくないと咄嗟に隠れてしまった自分が恥ずかしくなる。  この状況を招いたのは他でもない俺自身だ。そもそもこの店に近づいたのは仕事のため、そうだとわかっていても居心地の良さにかまけて深入りしすぎた。すべての元凶である俺に後悔する資格はない。  見知った顔が保安委員にどんどん連れられていく。彼らは裁判にかけられ近いうちに処刑されるだろう。それが革命を否定し国家に反逆した人間に待つ当然の結末だ。そうだとわかってもなお、胸の痛みが自分を苛んだ。  連行劇が終わると店の中は一転してがらんとしていた。さっきまで人で溢れていたはずなのに今では割れた食器が散乱し、普段の賑やかな様子は見る影もない。こうするほかなかったのだ。俺は諜報員で彼らは反逆者、元よりこうなる運命だった。そう思わないとやりきれない。  早くシルヴァンに会いたい。  他の全てをかなぐり捨ててでも彼だけは守りたかった。彼だけは告発することができなかった。利己的だと嘲笑われようが、裏切り者と糾弾されようがシルヴァンだけでも助けたかったのだ。  先ほどまで歩いてきた道を今度は足早に戻る。  シルヴァンに会ったら思いっきり抱きしめよう。到底許される行為だとは思っていないがきっと彼なら受け止めてくれる。  それから家を引き払って新しい家を探そう。シルヴァンの働く出版社から足がつかないうちに出来るだけ早く遠くへ高飛びするんだ。彼の言う通り海の見える場所にしよう。彼が望むならコーヒーくらいいくらでも淹れてやる。  扉を開けるのももどかしく勢いよく家の中へ飛び込んだ。寝台で横になったシルヴァンが寝ぼけ眼で自分を出迎えてくれるはずだ。  だが、そうはならなかった。  異様なほどの静けさとあたりに散乱した書類、いつも片付いているとはいえない部屋だがこの散らかり様は尋常じゃない。強盗が押し入って家捜ししたような有様だ。  ——まさか。  寝台の布団をはいでもそこはもぬけの殻。シルヴァンはどこにもいない。  頭の中が真っ白になった。なにか考えなければ、彼を探さなければと思うのだが身体が強張っていうことをきかない。人のいる気配がまるでしない部屋はひどく不気味で吐き気すらもよおしそうだった。  ふらふらと行くあてもなく外へ出る。とにかく新鮮な空気を吸いたかった。深呼吸しても動悸は治らず、耐えきれないままへたりと扉の前で座り込む。もうすぐ夜が明ける。本当なら今ごろ亡命の準備をしていたはずなのに。  冗談だと言ってくれ。黙って外へ出た俺への仕返しにどこか物陰に隠れているんだろう? くだらない悪戯だ。まったく笑えないが今なら許してやろうじゃないか。だから、早く。  徐々に近づく足音。人影の大きさからして大人の男——帰ってきたのか。 「シルヴァン! 」  顔を上げた俺の視界に飛び込んできたのはモーリスの姿だった。にたにたと下卑た笑みを浮かべる顔にぞっとする。 「お前のシルヴァンはもうここには来ないぜ」 「……どういうことだ」  理由などきかなくてもわかっていた。それでもこの嫌な予感が杞憂であってくれと藁にもすがる思いで尋ねざるを得なかった。  意気揚々としたり顔でモーリスは答える。 「俺が告発したんだ、お前があの店に行ってる間にあの赤毛の男をね。無様だったよ。あいつ、家に入ってきた俺をロベールだと勘違いしたんだぜ。今のお前とおんなじだなァ! 」  モーリスの高笑いを俺は黙ってきくことしかできなかった。わなわなと震える唇を噛み締めると血の味がした。 「だから言っただろう。情に流されるなってな」  勝ち誇ったような表情に頭に血がのぼった。  俺が余計な禍根を残したせいでシルヴァンは逮捕された。国家反逆罪で捕まった人間はほとんど帰ってこない。釈放されるのはほんの僅かで大多数が断頭台の露に消えていく。そんなことは保安委員である自分が一番知っている。シルヴァンが戻ってくる確率は零に等しい。 「閣下を欺こうとするからこうなるんだ。反逆者を逃亡前に逮捕できたんだ、俺に感謝してもらいたいね」  もう我慢の限界だった。怒りの感情に任せて力いっぱい殴りつける。手の甲が擦れる感覚、肉が骨にぶつかる音、小さくあがる呻き声。  それからの記憶はあまり残っていない。  数日後、シルヴァンの処刑の執行時刻を教えてくれたのもまたモーリスだった。俺の手の甲が擦れて血が滲み赤く腫れているように、彼の顔も青痣が浮きだちひどく腫れていた。手加減しなかったのだから当然だ。  最期の姿だけでも見てやれよ、と彼に言われた。その言葉は俺を激昂させ煽るために発せられたものでないことは声をきけばわかった。  シルヴァンが死ぬ。俺が殺すのではなく断頭台によって奴の首が落とされる。そんなこと考えたことがあっただろうか。  どちらにせよ、自分のせいで彼の命は絶たれるのだ。  広場には既に見物人が列をなしていた。陽の光を反射して断頭台の刃がきらめく。あと数分もすればこいつがシルヴァンの首に埋まるなんて想像もできなかった。  騒々しかった民衆の声がぴたりと止まる。彼らの視線の先にいたのは——シルヴァン。  後ろ手を縄で縛られ窮屈そうに処刑執行人に連れられて断頭台に上がってくる。久しぶりに見る彼の顔は少しやつれているように見えた。 「……シルヴァン」  俺の声など届くはずもない。そうとわかっていても名前を呼ばずにはいられなかった。本当は今にも刑が執行されようという彼に言葉をかけてやりたかったが、嗚咽のような情けない声で名前を呟くので精一杯だった。  毅然と前を見据えていたシルヴァンの視線が見物人たちの頭上をかすめた。しかし此方のほうには見向きもしない。どれほどみつめても彼の視線の先に俺はいない。無論、俺の心の声は奴には届かない。  本当はこの場で暴れだしてシルヴァンを攫って逃げてしまいたい。立場も名前も捨ててすべてを置いて彼と一緒にどこか遠くへ行ってしまいたい。でもそんなことが出来るわけがなかった。こんな人目のあるところで華麗に脱走劇を繰り広げられるほど現実は甘くない。  奴のために何もできない自分に彼は呆れているだろうか。それとも無力な俺を非難するだろうか。あるいは自分を窮地に追いやりながらのうのうと処刑場にまで現れる俺を憎んでいるかもしれない。どう思われても仕方がない。俺はシルヴァンを守れなかったのだから。  断頭台の前に跪かされるシルヴァンは一度たりとも抵抗する気配を見せなかった。そんな縄の拘束なんて解いて処刑人を振り切りどこかへ逃げてしまえばいい。いくらそう願っても彼は従順に処刑人の命令に従うのみ。外野である自分がどんなに懇願したとしてもシルヴァンは既にもう死を受け入れているのだ。  跪きながら俯いていた彼が不意に顔を上げた。一瞬泳いだ視線が俺の顔をとらえる。その目は驚いたように震えると、ふっと微笑んだ。  その瞬間、刃が落とされる。飛び散る鮮血が、首から落ちていく彼の頭が脳裏に焼きついて離れない。  ——なぜ、シルヴァンは俺を責めない?  自分を裏切り陥れた人間にどうしてあんな目を向けられるというのか。恨み言ならいくらでもきいてやるつもりだった。罵詈雑言を吐かれ中指を立てられ唾を吐かれても甘んじて受け入れる覚悟でいた。それだけのことを自分はしたし、シルヴァンにはそれを実行する資格があった。  それにもかかわらず、今際の際に彼は笑ってみせたのだ。他でもない俺をみつめながら笑って首を落とされた。それほどまでに俺を、俺なんかを。  膝が震え、立っていられなくなる。肌が粟立ち悪寒にさいなまれるのに嫌な汗が止まらない。  憎まれたほうがずっとずっと楽だったのに。

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