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日本編3 眠り姫は目覚めない

 薄目を開けると窓の外はうっすらと明るくなっていた。気づかないうちに寝入ってしまったらしい。俺が寝ている間に陸人さんが綺麗にしてくれたようで汗まみれの身体で目覚めることはなかった。あんな風にわがままを言って困らせたうえに不貞寝した人間にここまで配慮できるなんて、やっぱり陸人さんは優しい。  昨晩は冷静になって考えても大人気なかった。朝起きたらちゃんと謝らなきゃ。  隣に目をやると陸人さんはぐっすり眠りこけていた。そりゃ夜が明けたとはいえまだ起きるには早すぎる。小さく寝息をたてる彼は普段よりずっと子どもっぽく見えた。その姿に愛しさで胸がいっぱいになる。  ——寝ている間になら許されるだろうか。  起きている時はあんなに嫌がっていたけれど、今は夢の中で起きる素振りはない。今のうちにちょっとだけなら。  ほんの好奇心だった。眠っている陸人さんの唇にそっと自分の唇を合わせる。初めて触れる柔らかい感触に顔が綻ぶ。  その感動も束の間、目の前が真っ暗になった。真っ暗、いや、明るいのか。強烈な光が目まぐるしく点滅し、あまりの眩しさに目が眩んだ。  走馬灯のように映像が脳内に流れ込んでくる。  腹部に感じる鋭い痛み、ほとばしる鮮血。  目の前にいるのは、“リシャール”だ。  心から信じていたのに、なぜ、お前が——? 「……お前が、俺を殺したのか」  隣で眠る男は俺の恋人のはずだった。誰よりも愛しく、誰よりも俺を大切にしてくれた人。でも今ではそんなことは考えられない。信頼をふみにじり、あろうことか俺に剣を突き立てた裏切り者だ。  ひどい目眩に襲われる。身体の奥底からこみあげる憎悪、口にはできないほど強烈な殺意に今にも狂いそうだ。  俺は“ジュリアン”、あの国の第一継承権をもつ王太子。リシャールは忠実な家臣だった。父上に献身的に仕え、俺に対しても忠義を尽くしてくれた。狭苦しい王宮のなかで初めてできた友人、そして初めて愛したひと。それなのになぜ俺に剣を向けた?  そうだ。父上は、あの国はどうなったのか。歴史の渦に消えるような小国だ。何か文献が残っているとは考えられない。俺の亡き後、一体何が起こったというんだ。  頭が割れそうに痛い。身体が勝手に震えて止めようにも止められない。  陸人さんはこれを知っていたのか。キスをしたら俺が“ジュリアン”の記憶を取り戻すことを知っていたから、だからあんなに口づけを拒んでいたのか。  それならばなぜ俺に近づいた? 殺したいほど憎んだ相手を、そして実際に手をかけた人間と親しくする理由はなんだ。それだけに飽き足らず、彼は愛の言葉をささやきもした。それも一度や二度ではない。彼から伝えられた愛の言葉の数なんて、自分が今まで摂った食事の数を数えるのと同じくらい数えようがない。それほどまで一緒に過ごしてきたのに、彼は俺を欺いていたのか。  “リシャール”と“ジュリアン”が初めて過ごした夜、彼は俺に好きだと嘯いた。何度も何度も繰り返されるその言葉に、そして俺にしがみつくその身体に愚かにもそれを信じてしまった。けれども後に“リシャール”は俺を裏切った。  それならば尚のこと、目の前にいるこの男の狙いはなんだというのか。ただ殺すだけなら今までいくらでも機会はあった。“ジュリアン”とは違い今の俺はただの一般市民で護衛などついていないのだから。……何か別の思惑があるのか? 「……ん、汐風、もう起きたのか」  突然呼びかけられてびくんと肩が震える。  いつの間にか随分と時間が経っていた。もう陸人が出勤する時刻だ。幸い、俺がジュリアンの記憶を取り戻したのは気づいていないらしい。 「じゃ、行ってくる」  身支度を済ませた彼が俺の頭にぽんと手を置く。その重みは普段感じるものとまったく同じで逆に混乱する。一度殺した人間相手によくこんなことができるものだ。  本当なら不可解な現状の訳を問い詰めてやりたいところだが、今は全身の力が抜けて身体を動かす気力もない。  ただ呆然と家を出ていく彼の後ろ姿をみつめることしかできなかった。

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