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日本編6 踏切の向こう側

『今晩うち来れるか』 『明日試験がある。ごめん』 『了解。今週末どこか外で食べにいこう』 『悪い、土日はずっとバイトあるから無理そう』  携帯のメール履歴を遡りながらため息をつく。  陸人さんから最近よくお誘いのメールが届く。理由は自分が一番よくわかっている。俺が陸人さんを避けているからだ。  避けている、という表現とはちょっと違うかもしれない。今週も来週も試験があって勉強で忙しいのは本当だ。でもすきま時間を無くすためにバイトのシフトを詰めすぎて自分の首を絞めているのもまた事実である。  時間ができたら、陸人さんに会いたくなってしまう。  陸人さんは“リシャール”で、なんらかの恨みを晴らすために“ジュリアン”を殺害した。その記憶が蘇ってからというもの、彼と面と向かって話すのを怖いと感じる自分がいた。  今の陸人さんに俺への殺意がないことはなんとなく感じている。でも何かの拍子にまた俺が彼の逆鱗に触れたとしたらどうなるのだろう。“リシャール”を凶行に走らせるまでのことを俺は彼にしたのだ。また同じことを繰り返さないという保証はない。  もしも俺が何かしたせいで再び陸人さんが俺を憎みはじめて、終いにはまた俺を殺そうとしたら——そのとき、俺は陸人さんをきっと憎んでしまう。  もしかしたら逆に殺してしまうかもしれない。自分に敵意を向ける陸人さんを俺は見たくもないし、もちろん彼の命も奪いたくない。彼に会わなければ陸人さんを怒らせる心配もないし、俺は俺の知る陸人さんを嫌いにならずに済む。  そんなことを考えてずるずると時間が経ち、最後に会った日がどんどん遠ざかっていく。毎日のように届くメールにも返信しないことが増えていた。不用意な言葉で陸人さんを傷つけそうで怖かったのだ。  レストランのバイトは気が楽だ。ホールには客がいっぱいで慌ただしくて気の休まる暇がない。仕事で頭をいっぱいにしていれば余計なことを考えなくて済む。  閉店作業のあと、レジ締めを終えて一番最後に退勤する。時刻は二十三時をまわろうとしていた。家に着いてひと息ついた頃には日付が変わる。時間が経つのなんてあっという間だ。  欠伸をしながら店の外に出ると、街灯にもたれかかる人影が目に入ってきた。 「……陸人さん? 」  声をかけると人影がこちらを振り向く。現れたのはやはり彼だった。 「なんでこんな所にいるの? 仕事は? 朝早いのにこんな時間に——」 「汐恩」  名前を呼ばれて彼が駆け寄ってくる。 「待ち伏せなんてストーカーじみたことして馬鹿だよな、ごめん」 「いや俺のほうこそちゃんと連絡もしないで……」  しばらく顔を合わせていなかったせいで妙に気まずい。とにかく立ち話をしても仕方ないので適当な場所に落ち着くことにした。  こんな時間じゃファストフード店しか開いていなかったが、今の俺たちにはこの騒々しさがちょうどいい。 「コーヒーでよかったか、やっぱりコーラのほうが」 「ううん、コーヒー好きだし」  陸人さんが買ってきてくれたアイスコーヒーのカップを受け取る。ひと口すするとチープなコーヒーの味が口の中に広がった。 「……元気にしてるか」  重たい空気を取り払うように陸人さんがきいてくる。 「まあ、ぼちぼちかな。試験もあったし」 「そうか。……ならよかった」  会話が続かない。久しぶりに顔を見たせいか変に意識してしまってぎこちない返事しかできなかった。 「最近、あんまり連絡くれなかったよな。かなり忙しかったんだろう」 「バイト多かったから。働かないと遊ぶ金ないし」  また不自然な沈黙。  陸人さんが気を遣って会話を続けようとしてくれているのはわかるのに、変なことを言わないか不安でいつものように言葉が出ない。 「……俺に、飽きたのか?」  思いがけない言葉に身体が強張った。 「俺が陸人さんに飽きる? そんなわけないじゃん」 「でも最近連絡もなかったし俺に会おうともしないし、俺なんかよりも大学の友達のほうが気心が知れてて楽しいんじゃないかと思って……」 「ちょっと、なんで俺の友達が出てくるのさ? 」 「お前はまだ若い。学生だし、新しい出逢いもいっぱいある。それに比べて社会人は時間の制約もあるしそう簡単にデートもできない。だからこんな俺に愛想尽かして——」 「なに、俺が浮気したって言いたいの? 」 「違う、お前の人柄を知れば誰もがお前を好きになる。だからお前には、」 「陸人さんだって、俺を裏切ったじゃないか! 」  唐突に大声を出したせいで辺りがしんと静まり返る。  小さく咳払いをして椅子に座り直す。 「裏切り? なんのことだ」 「あのとき、俺に剣を——」  そう言いかけてからはっと口をつぐんだ。  この話は俺が知るはずのない“ジュリアン”の記憶だ。  しかし気づいた時には既にもう遅い。陸人さんは目を大きく見開いて唇が小刻みに震えていた。 「なぜお前がそれを……? 」 「ごめん、陸人さん、違うんだ」  いくら弁解しても陸人さんの耳には俺の声は届いていない。  失敗した。かっとなって言うべきじゃないことを口にした。しかし一度言葉にしたものを元に戻すことなんてできなかった。 「俺にキスしたのか、そんな、いつの間に」 「黙ってしたのは悪かった。謝るよ」 「俺がどんなに気をつけてどんな思いでキスを避け続けてきたか……お前にわかるか」 「だから謝るよ、ほんの出来心だったんだ」  どんなに謝ってもとりつく島もない。陸人さんは乾いた笑みを浮かべながら頭を抱えた。 「それじゃ、お前は全てを思い出したってことだな」 「……うん、そういうことになる」  俺の返事に陸人さんは相当なショックを受けたようだった。みるみるうちに顔が青ざめ、目にいっぱいの涙を浮かべる。 「俺たち、もう一緒にいないほうがいい」  しばらく俯いてうなだれていた陸人さんが唐突に発したのは別れの言葉だった。  反論する間もなくふらふらと陸人さんが店から出ていく。  ——俺は、こんな結末を望んでいたんじゃない。  陸人さんと普通の恋人同士でいたかった。たわいもない話をして、時には抱き合ったりする当たり前の幸せがほしかった。  “ジュリアン”の記憶を取り戻す前の俺たちはまさにそんな関係だった。国家を揺るがすようなスキャンダルや情熱的な略奪愛の末に結ばれてたわけでもない、どこにでもいるごく普通の恋人同士。そんなありきたりでも至上の幸せを俺がこの手で壊したのだ。  陸人さんを傷つけたくないと距離を置いたのは俺からだった。でもそれは陸人さんを思いやってのことじゃない。俺が陸人さんに嫌われるのが怖かったから、陸人さんが俺を見限る姿を見たくなかったから。全て自分本位の身勝手な理由だ。  本当は頭のどこかでわかっていた。陸人さんが心から俺を好きでいてくれていることも、そして俺がどう足掻いても彼に心底惚れていることも。  それなのに臆病風に吹かれて陸人さんを失う未来を想像して、勝手に心を閉ざした。自分から閉ざしてしまえば誰かに傷つけられることもない。でもその結果、その心をこじ開けようとしてくれた陸人さんを傷つけた。こんなに俺を愛してくれたのに、一番守らなきゃいけないものなのに。  遠い昔に俺たちの間には何かがあったのかもしれない。殺したいほど憎むような軋轢が彼の中にはあったのかもしれない。  でも今は彼は俺のことを好いてくれている。理由も過程もなにもわからないけれどそれは紛れもない事実だ。それだけでもう十分だ。  俺にはどうしても陸人さんが必要だ。  あわてて店を飛び出した。  追いかけなくちゃ、ちゃんと話をしなくちゃ。  愛してるって、まだ伝えられてない。  真夜中近いこの時間は街中でも人気はまばらだ。それなのに陸人さんの姿だけが見当たらない。  コンビニの中、駅の前、繁華街、電車のホーム。  いくら探してもみつかる気配がなく、気持ちだけが急いていく。  どうかお願いだから、もう一度彼に会わせてほしい。言わなきゃいけないことがある、なんとしてでも伝えたい気持ちがあるんだ。  街中走りまわったせいで息が苦しい。額に浮かぶ汗を拭っても滴り落ちてくる。でもきっと俺より陸人さんの胸のほうが苦しいはず。 「——陸人さん! 」  見間違えるわけがない。あのシルエット、長い髪に大きな身体、陸人さんだ。  踏切の向こうを歩く彼を大声で呼び止める。恥も外聞もどうでもいい。彼が歩みを止めてくれるならなんだってする。  彼の足がぴたりと止まる。そしてくるりと振り返った瞬間、俺の目の前を物凄いスピードで電車が走り抜けていく。  ああ、行ってしまう。  俺のいとしい人、誰よりも大切な人。  目前の踏切が開くころには彼はきっとどこかへ消えてしまっている。俺の手の届かないどこか遠くへ行ってしまう。  へたり、とその場に座り込んだ。  遅かった、すべてが遅すぎた。今さらこんな大事なことに気づくなんて俺は本当に大馬鹿者だ。  すくった砂粒が指の間からこぼれ落ちていくような気がする。せっかく掴んだものなのに最後には掌には何も残らない。確かに一度はこの手に握りしめたのに、今はもう空っぽになったその感触と受け入れがたい喪失感を抱いていかなきゃならないんだ。  これほどまでに好きで、胸が張り裂けそうなほど彼を想っているのに。 「——汐恩」  やさしい声に顔を上げる。  踏切が開くと、その向こうには彼が立っていた。 「……陸人さん! 」  迷うことなく一直線に駆け寄った。  さっきまで全力疾走していたせいで足がもつれて無様なものだったけれど、陸人さんは両手を広げて待っていてくれた。 「陸人さん、俺……怖かったんだ。本当は陸人さんが俺のこと嫌いなんじゃないかって、一度は俺を殺した人を本気で愛せるのかって」  喉が乾いてうまく喋れない。でもどんなに無格好でも、伝える気持ちは嘘じゃない。それが真実味をもって彼の心に届いてほしいと思う。  でも、と先を続けた。 「でも、そんな遠い昔のことなんて関係ない。今、この世界で、俺は陸人さんを好きになったんだ」  まっすぐに陸人さんの瞳をみつめた。  陸人さんと出逢ったころ、俺の目が好きだと言われたことがある。俺の瞳には感情の色が宿るらしい。だからどんなときでも俺の目を見れば俺の本当の気持ちが流れ込んでくるんだ、って。  ねえ、陸人さん。俺の瞳、嘘ついてないでしょ? 「でも俺はお前のことを騙して、剣を——」 「そうだね、あれは確かに痛かった。でも今、俺が陸人さんのことを愛しててそんなとっくの昔のことは忘れるって言ってるんだから、それで良くない? 」 「馬鹿っ、そんな簡単に……」 「陸人さんは俺のこと好き? 」 「もちろん、その言葉に偽りはない」  陸人さんが力強く断言した。俺には陸人さんの言う瞳に宿る感情の色ってやつはわからないけれど、今の言葉が本当だってことは確信できる。 「俺も愛してる。心の底から」  陸人さんの襟元をぐっと掴んで顔を自分のほうに引き寄せた。その唇にすかさず自分のを重ね合わせる。  目の前が真っ白になって、強烈な光が目まぐるしく点滅し、あまりの眩しさに目を細める。それと同時に走馬灯のように映像が脳内に流れ込んでくた。  やさしく介抱してくれる“リヤード”の手。  仕事場にいる彼の姿をこっそりと眺める自分。  抱きしめられたときの天にも昇るような心地。  濁流のように流れ込んでくる記憶にくすりと笑みをこぼす。  なんだ、俺、ずっとお前のことが好きだったのか。

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