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二話 王子って実はスケベだったんですね 13

 奏はふたりを見送ると、自分自身も家を出た。  出社してゲラを読んだり、デザイナーと装丁の打ち合わせをしたり、担当している作家に原稿の進捗をうかがったりしていると、いつしか日が暮れていた。  そろそろ花藤響己の家に出向かなくてはならない時刻だ。次回作のプロットができたので見にきて欲しいと、朝に届いたメールで言われているのだ。  編集者とのやりとりをメールで済ませる作家は少なくないのに、響己は対面でのコミュニケーションを好むらしい。顔をあわせる回数が、他の作家に比べて圧倒的に多い。  それに普通は喫茶店などで打ち合わせをするのだが、響己との打ち合わせはいつも決まって自宅だ。人目があると気になる、という理由だったが、確かに響己は世間様に顔を知られている。人目があっては、打ち合わせに集中できないのかもしれない。  マンションのコンシェルジュに訪問を告げて、セキュリティーカードを渡してもらう。このカードがないとエレベータのドアが開かないのだ。 「やあ、よくきてくれたね。上がって、上がって」  ドアベルを鳴らすとすぐにドアが開いて、笑顔の響己が出迎えてくれた。編集者ではなく、友人を出迎えるような態度だ。  響己は奏をソファーへ座らせると、飲み物を用意するといってキッチンへいってしまった。 「あ、あのう……ど、どうぞおかまいなく……。プ、プロットを見せていただきにうかがっただけなので」  ふかふかのソファーはいつも少し居心地が悪い。奏は落ちつかない思いで身じろぎした。  響己は自分にコーヒーを、奏のためにカフェオレを淹れてくれた。せっかく淹れてくれたからと思ってひと口飲む。 「……美味しいですね」  ミルクの優しい甘さの中に芳ばしい香りが立ちのぼる。下手な喫茶店で飲むよりもよっぽど美味しい。  響己は奏の素直な感想に顔をほころばせた。 「気に入ってもらえたのならうれしいよ」  本心からの言葉だろう。響己は満足げに微笑んだ。  ……そうだよな、美味しいのひと言って、作る側にとってほんとうにうれしいひと言なんだよな。いつか王子も言ってくれるだろうか。言ってくれるといいな。 「プ、プロットを見せていただいても……」 「ああ、ちょっと待ってて」  響己はリビングルームを出ていくと、大学ノートを手にもどってきた。  ひと文字ひと文字丁寧に読んでいく。このノートは作品の種だ。水や日光を与えて育てるのは作家ひとりの仕事ではない。編集者の役割でもある。  次回作のプロットは申し分なく面白かった。もちろん粗や不足はあるが、それは追い追いつめていけばいいだろう。必要になりそうな資料について、響己と相談する。 「奏くん、これで仕事は終わり?」 「え? あ、は、はい。ここから直帰する予定です」 「だったらこれから一緒に夕食を食べにいこうよ。ひとりで食べてもつまらないからさ」  あれから響己には何度か食事に誘われているが、奏は毎回断っていた。打ち合わせならいつでも時間を作るが、編集者が作家にたびたびごちそうになるのはどう考えてもよろしくない。それにミハイエルの食事のこともある。なによりも奏自身が精神的にきつい。

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