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二話 王子って実はスケベだったんですね 16
「遅いぞ。さっさと食事の支度をしろ」
帰るなり、居丈高に命令してくる。いつもの奏なら『は、はいっ、ただいま!』と敬礼しかねない勢いで台所に向かうのだが、今日は陰気な眼差しをミハイエルへ向けただけだった。
ミハイエルの眉がわずかに寄る。
「なんだその目は」
「……お、王子って、じ、じ、実はスケベだったんですね」
あまりにも意外な言葉だったらしく、王子は両目を見開いた。が、すぐに険しい表情にとってかわる。
「はあ? この俺がスケベだと。いきなりなにを言い出すんだ。失礼な奴だな」
「だ、だってそうでしょ。あっ、相手が可愛い女の子だからって、デ、デレデレしちゃって。い、いやらしい」
怒りとも哀しみともつかないものに押されるままに、奏は言葉を吐き出していた。
「俺がいつデレデレしたっていうんだ」
がたっと椅子を揺らして立ち上がる。
「しっ、してたじゃないですか。あ、杏相手にデレデレと。あ、杏って呼び捨てにしてるし。おっ、おれのこと、い、一度だって名前で呼んだことがありますか? い、いつもおまえ呼ばわりじゃないですか。ま、魔界の王子といえども、か、可愛い女の子には弱いんですね」
眼鏡の奥から冷ややかな視線を向ける。
「おまえの妹だというから、丁寧に接してやっただけだろうが」
「ほっ、本人の扱いは、そ、粗雑極まりないのに、そ、その妹には丁寧って、いっ、い、意味がわかりませんけど!?」
「だいたいデレデレしてたのはおまえのほうだろう!」
「はあっ!? おっ、おれがいつデレたっていうんですか。い、妹相手にデレデレなんて――」
「妹じゃない。エリファスにだ」
あまりに思いがけないことを言われて、きょとんと目を見開く。
「エ、エリファスさん? い、いや、お、おれがいつエリファスさんに、デレデレしたっていうんですか」
まったくもって身に覚えがない。
「今朝してただろうが。エリファスが魔法で椅子を呼び寄せたら、うっとりした目であいつを見てただろ」
ミハイエルは黒い炎を宿した眼差しで奏を睨みつけてくる。
「う、うっとりって……。す、すごいなあと思ってみていただけで、別にうっとりしていたわけじゃ」
「あのくらいの魔法、俺にだってたやすいんだ」
なんだその対抗意識は。
「食事のときもそうだ。エリファスに褒められてデレデレしていたじゃないか」
「そ、そりゃあそうでしょ! おっ、美味しいなんて言葉、料理を作る人間がいちばん欲しい言葉なんですから。おっ、王子は一度だって言ってくれたことがないじゃないですか!」
「いつも残さずに食べてるのに、いちいち言う必要があるのか?」
「杏のクッキーは美味しいって褒めたくせに」
奏はじとっと睨んだ。いつも残さず食べてくれるから、料理の感想がまったくなくても気にしないようにしていたのだ。笑顔を見せてくれないのも、めったに笑わない子なんだろうと。
それなのに――
自分以外の人間があっさり与えられるのを目の当たりにして、奏がどういう気持ちになったのか、少しも想像できないんだろうか。
残さず食べてくれること。料理を食べて偶に口許をほころばせること。たった一度だけ、それもほんの一瞬だったけど、笑顔を見せてくれたこと。そんなささやか反応を後生大事にしていた自分自身があまりにみじめだ。
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