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二話 王子って実はスケベだったんですね 17
「……さっきのクッキーは正直言ってあまり美味くなかった。無言で残したら不味いと言っているのも同然だろう」
「そんなのおれの知ったことか」
柄にもなく乱暴に言い放つのと涙があふれ出すのは同時だった。
しまった、と思ったときにはもう遅い。涙があとからあとからあふれ出した。慌てて眼鏡を外し、ごしごしと擦る。
みっともない。相手は魔界の王子とはいえ、やっと高校生になったばかりの子供なのに。大の大人が『美味しい』と言ってもらえなくて泣くなんて。
でも、わかった。自分はもうずっと傷ついていたのだ。
「泣くな」
乱暴に抱き寄せられたと思ったら、頬に柔く温かなものが触れた。しっとりとした感触は、涙を拭い取るように下から上へと動いた。
その感触がミハイエルの唇だと気づく。
「わっ! うわわわわわ! なっ、なにするんですか!」
慌てて身を離そうとしたが、ミハイエルの腕にしっかり取り押さえられて逃げるに逃げられない。
「泣くなと言ってるんだ」
「もっ、もう泣いてませんよ! びっくりして涙も引っこみました!」
信じられない。いくら泣いているからといって、涙を唇で拭うとか。
心臓が痛いくらいに騒いでいる。落ちつけ、落ちつけ、相手は男だ。それも十歳も年下の少年だ。歳の離れた妹よりもっと年下の。
そうだ、相手は弟だと思いこめばいい。妹以上に似てない兄弟になってしまうが。
言い聞かせてみたが、心臓の騒ぎはおさまらない。年齢イコール彼女いない歴の奏には刺激が強すぎた。
「悪かった」
「……へ?」
思いがけない言葉が聞こえた気がする。悪かったとかなんとかかんとか。ミハイエルの口から出るはずのない言葉が聞こえたような――
「おまえのことは身内みたいに感じていたから、つい扱いがおざなりになった。これからはきちんと美味しいというようにする」
「えっ、いや、あの」
ミハイエルは生真面目な表情で奏を見つめている。
尊大王子らしからぬ素直さで反省されると、逆に途惑う。
「お、美味しいっていうか、口にあわないときはもうちょっと味が濃いほうがいいとか、薄いほうがいいとか、そういうのも――」
「味に不満を感じたことはない。おまえの味つけはいつも俺好みだ」
「あっ、そ、そうですか」
「名前で呼んで欲しいんだったな」
「えっ、いや、そ、そ、そ、そんな矢継ぎ早に――」
「奏」
瞳を細めるように微笑まれて、心臓が爆ぜた。やばい、死ぬ。
「あっ、あのですね、王子!」
「名前で呼べと言っておきながら、自分は王子呼びとはどういう了見だ」
誰も名前で呼べとまでは言っていないのだが、それはともかく。
「え、えーっと、あの、み、ミカさん……?」
「ミカでいい」
「み、ミカ――」
だめだ。脳みそが熱のあまり暴走しかかっている。まだ春だというのに熱中症になりそうだ。
いや、ほんとうになりかけているのかもしれない。頬が燃えるように熱い。目眩がする。頭がぐらぐらしてまっすぐ立っていられない。
「おい、奏――?」
……だめだ。気が遠くなる。ひょっとしてこのまま死んでしまうとか……?
「奏、奏――?」
お父さんお母さん先立つ不孝を――いや、両親なんてどうだっていい。心残りは妹だけだ。
杏、先立つ不幸をお許しください――
「奏――!?」
奏はミハイエルの腕の中で気を失った。
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