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三話 今日からおまえは俺の弟だ 2
額がひんやりした感触で覆われる。
奏はのろのろと瞼を開けた。黒々とした瞳がすぐ真上から奏を見下ろしている。眼鏡をしていないらしく、視界がぼやける。
……王子? あれ、おれいったいどうしたんだっけ。頭の中がぼんやりしていて、思考が上手くまとまらない。
……ああ、そうだ。王子と盛大に口喧嘩したんだった。杏に対する態度がおれのとあんまり違いすぎて、抑えきれないくらい腹が立って……。
いまになって思えば、尊大王子相手によく逆らえたものだ。だいたい冴えない奏と可愛い杏への態度が違っていても、そんなのは当然なのに。
「大丈夫か、奏」
この声で名前を呼ばれると、自分の名前がなにか特別なものになったような気がする。綺麗な花、あるいはひとつぶの宝石。まあ、じっさいは冴えないアラサー男の名前なのだが。
「……王子、おれ」
「熱を出して倒れたんだ」
「え……」
奏はミハイエルに抱きしめられたことや、頬が燃えるように熱くなってめまいがしたことを思い出した。そこで記憶は途切れている。
そういえば唇で涙を拭われたような――
思い出した途端、ふたたび顔が熱くなった。そろそろ煤と化すんじゃないだろうか。
奏は自分がベッドに横たわっていることに気がついた。どうやらミハイエルが運んでくれたらしい。
「すっ、すっ、すみません……! いっ、いますぐ退きますから」
慌ててベッドを出ようとしたが、ミハイエルの手がぐっと押さえつけてきた。
「熱があるんだから寝ていろ」
「い、いや、でも」
「もともとおまえのベッドなんだから、遠慮することはない」
まったくもってミハイエルの言うとおりだが、そのベッドを当たり前のように占領していたのもミハイエルである。
「……こ、これも王子が?」
奏は額の濡れタオルに触れた。まるで日本人みたいな看病のしかただ。きっとミハイエルの母親がこうやって看病したのを覚えているんだろう。
魔族も病気になるのかな……。人間よりうんと寿命が長いって聞いたけど。
「ああ、気持ちいいだろ」
「……あ、ありがとうございます」
さっき言いたいことをさんざん言ったせいだろうか。それとも年甲斐もなく目の前で泣いたりしたせいなのか。ミハイエルが優しい。うれしくないわけではないが、それ以上に落ちつかない。
「お、王子のお母さんも、こうやって看病してくれたんですか……?」
「ああ、日本では熱を出すと、こうやって額を冷やすと言っていた」
ミハイエルの瞳が柔らかくゆるんだのが、ぼやけた視界でもわかった。亡くなった母親を思い出しているのかもしれない。
「……王子はお母さんを愛しているんですね」
「当然だ。俺を生み育ててくれた人なんだから。……魔界へきたことが正解だった、とはいまでもまだ思えないけどな」
ただ育ててくれただけじゃない。ミハイエルの母親は子供に惜しみない愛情を注いだに違いない。ミハイエルの言動のそこかしこに母の存在を感じるのが、その証しだ。
「……羨ましいな。おれは母さんが嫌いだから……。当然って言える王子が羨ましい」
奏は目を閉じてつぶやいた。
「奏は母親が嫌いなのか」
ミハイエルとも思えない穏やかな口調だった。責めるでも問うでもない、奏の気持ちを受け入れるだけの。
「嫌いです……」
「そうか、わかった。……もう少し寝ろ」
ミハイエルの指が頬に触れた。冷たくて気持ちがいい。
「もっと……」
もっと触って欲しい――って、なにを言おうとしてるんだおれは!
いや、違う。熱があるから冷たい手の感触が気持ちよかっただけで、決しておかしな意味じゃない。そうだ、王子の手が冷たいから。それだけだ。
奏は必死になって自分自身に言い聞かせた。
「おやすみ、奏」
ぎしっとベッドが揺れて、唇が柔らかい感触で包まれた。ドアが開き、閉まる音が聞こえて、部屋は無音になった。
「………………えっ?」
奏はバネ仕掛けのように飛び起きた。まじまじとドアを凝視する。
「……え、え、ええっ!?」
キスされた――ような気がする。気のせいだろうか。熱に浮かされているせいで幻覚に襲われたのかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに決まっている。
頭がぐらぐらする。熱のせいなのか、キスのせいなのか、そのどちらもなのか。
倒れこむようにベッドへ突っ伏すと、泥のような眠りがあっという間に奏を攫っていった。
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