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三話 今日からおまえは俺の弟だ 13

 次の土曜日、奏は午前中に家を出た。今日はミハイエルのベッドを買いにいく予定だったが、その前にもうひとつ約束がある。  電車に乗って向かった先は、妹の暮らす家――奏が十五歳まで暮らした家だ。  降りる駅が近づくにつれて、だんだんと気持ちが沈んでいく。できることならあの家には近づきたくなかったが、わざわざ外へ呼び立てるのも煩わしく、奏が生家へ向かうことにした。  生まれ育った家にはたくさんの思い出がつまっている。楽しかった思い出、幸せだった思い出がほとんどのはずなのに、母親に捨てられたという思いが、すべてを闇の色に塗りつぶしている。  杏がまだ幼いころは杏に会うために生家を訪れなくてはならなかったが、中学生になってひとりで出歩けるようになると、その必要もなくなった。妹と会うのはどこかのカフェや遊園地に変わった。  奏が自分に会うために生家を訪れていると思っていたのか、息子がぱったり訪れなくなると母は何度も電話をかけてきた。 『今度はいつくるの?』  自分が捨てた子供に会ってどうしようっていうんだよ。心でそう思いながら、奏は『またそのうち』と曖昧に返すのが常だった。やがて母から電話がかかってこなくなると、つながりは完全に途絶えた。  曖昧に躱し続けていたのは自分自身なのに、奏は母からの連絡がなくなったことに傷ついた。  捨てた子供なんてしょせんその程度の存在だった。なりふりかまわず会おうとするほどでもない。わかりきったことを改めて思い知らされたからだ。  駅を出て家が近づいてくると、ますます気が重くなってくる。母親と顔をあわせるのは三、四年ぶりになる。いったいどういう気持ちで対面すればいいのか、よくわからない。  奏は溜め息をつくと、知らず知らず俯いていた顔を上げた。  すべては杏のためだ。今日が終わってしまえば、もう母親に会うこともない。次に会うのはおそらく妹の結婚式になるだろう。  家が近づいてくると、門の前に人が立っているのが見えた。 「あ、お兄ちゃん」  杏は兄の姿に気がつくと、膝丈のワンピースをひらめかせながら、小走りで駆け寄ってきた。 「杏……なにやってたんだよ、家の前で」 「なにって、お兄ちゃんを待ってたに決まってるでしょ」  そう言いながら手をつないでくる。なんだなんだ子供みたいな真似をして、と思いながら、手を引かれるままに歩いていく。 「ミカさんは一緒じゃないんだね。連れてくるのかなーって思ってたのに」 「え? いや、ミカには関係ないし。それに――」  響己のときみたいな態度をとられたら胃壁がすり減る。 「それに?」 「……いや、なんでもない」  杏は家に入るまで兄の手を握ったままでいた。  ああ、そうか……。俺が家に入りづらいだろうと思って、勇気づけようとしているのか。 「お母さん、お兄ちゃんきたよ」  杏が家の奥へ向かって言うと、すぐにリビングのドアが開いて母が出てきた。冷たい水を浴びせられたみたいに、心臓がきゅうっと収縮する。 「奏……久しぶりね。元気にしていたの」  奏と杏の母――木綿子は途惑いを隠しきれない表情で微笑んだ。数年もの間いっさい顔を見せなかった息子にどう対応していいのかわからない。木綿子の顔はそう語っていた。 「お久しぶりです……」  奏はぼそっとつぶやくと爪先へ視線を落とした。  数年ぶりに会う母は、記憶の中にある母よりいささかやつれて見えた。夫の仕事が上手くいっていないために、心労が多いのかもしれない。  胸に濁った感傷が湧き上がる。母を哀れむ気持ちと、そんな自分を何様だと罵る気持ち。おまえを捨てた母親じゃないか。いい気味だとせせら笑ってやれ、という思いも微かにあった。

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